「渋滞の首都高は、夕暮れに追い越されて...」这句话意思能明白,但是后半句怎么翻译出来比较好

 熱海駅の改札口をでようとする人波にもまれながら、放二はすれちがう人々の中に記代子の姿をみとめて、小さな叫び声をのんだ

 記代子は、彼がみとめる先に、彼に気付いていたようだ。

 けれども、視線がふれると、記代子は目を白くして、ふりむいたそして人ごみの流れに没してしまった。

 放二は深くこだわらなかった記代子が熱海に来ていたことに不思議はない。これから彼が訪ねようとする大庭長平を、彼女も訪ねてきたのだなぜなら、長平は記代子の叔父だから。

 長平の常宿は幻水荘である彼は京都から上京のたびに、まず熱海に二三泊する。戦争中の将軍連が戦線から帰還参内するときのオキマリに似ているから、文士仲間や雑誌記者は、彼の上京を大庭将軍参内と稱しているその熱海着の報告をうけとるのは放二のつとめる雑誌社だ。長平のキモイリでできた雑誌社である放二は長平係りの記鍺で、上京中の日程をくみ、雑用をたすのである。

 しかし、長平の口添えで、姪の記代子が入社してからは、上京中の長平のうしろに、男女二名のカバン持ちが、影のように添うことになった

「いま記代子が帰ったところだよ」

「ええ。駅で、お見かけしました」

「どうして一しょに来なかったの」

「ちょッとほかへ回る用がありましたので」

 と、放二はさりげなく答えた。長平の問いかけに罙い意味があろうとは思わなかったからである長平は人のことにはセンサクしない男である。ところが、ちょッと、目が光った

「記代子は、君が来ないうちに帰るのだと言って、いそいでいたぜ」

「何かあったのかい?」

 放二は口をつぐんだそして、考えた。思い当ることはあったが、意外でもあった

 昨夜、社がひけて、二人は一しょに家路についた。新宿は二人が別々の方向へ

れる地点だそこで下車してお茶をのんだが、記代子は放二のアパートまで送って行くと言いだした。

 放二はその場では逆らわなかったが、駅の地下道へくると、

「ぼく、あなたをお送りしますぼくが送っていただくなんて、アベコベですから」

 放二は他意のない微笑をうかべ、記代子のプラットフォームの方へ進もうとすると、

 記代子がカン高い声でさえぎった。おしとめるように立ちはだかったが、顔の血の気がひいているひきつッている。

 と言いすてると、ふりむいて、去ってしまった

 そんな出来事が昨夜あった。しかし、それぐらいのことで今日もまだ腹を立てているとは思われない一しょに熱海へ来る筈だったが、三時間待っても記代子がこない。急用ができたのだろうと放二は思ったそして、熱海駅ですれちがった時にも、何か都合があるのだろうと思い、汽車の時間があるので急いで行ってしまったのだろうと、なんのコダワリもなく考えていた。

「一しょに熱海へくるはずでしたけど、東京駅でお会いできなかったのですぼくが時刻をまちがえてお待ちしていたのでしょう。三時間待って、熱海へついたら、帰られる記代子さんとすれちがったのです」

 こだわるイワレがあろうとは思われないから、放二は思った通りのことを言った

 しかし長平は意外に冷めたく、とりあわなかった。

「記代子は君に会いたくないと言っていたのだよ」

「君たち二人の私事に強いてふれたいとも思わないが、同じ社の仲間同士反目しても、つまらん話さとりわけぼくに親しい御両氏が睨み合ってたんじゃ、ぼくも助からんからな」

 たかが放二をアパートまで送ってくれるというのを拒絶したぐらいのことで、記代子がそんなに腹を立てゝいるというのは意外である。しかし、紟までのことを思うと、思い当ることもあった

 記代子は放二のアパートを見たがっていたが、放二はいつも言を左右にして、近寄らせないようにしていた。見せて悪い秘密でもないが、見せない方が無難に相違ない軽いイワレがあってのことだ。

 いつか二人そろって鎌倉の作家のところへ原稿をもらいに行って、御馳走になったことがあるのめない酒をすすめられて、二人はかなり酔った。わりと早くイトマを告げたのだが、鎌倉のことで、新宿へついた時には、記代子の市電がなくなっていた

「放二さんに泊めていただくわ」

 記代子は安心しきっていた。

 放二はさからわなかったが、中央線には乗らなかった記代子を散歩にさそって、夜の明けるまで、神宮外苑をグルグル歩きまわっていたのである。始電がうごきだして、新宿駅で別れたとき、疲れきって、物を言う力もなかった

 そのときも、記代子は怒った。数日間、放二に話しかけなかった

 深夜から夜の明けるまで外苑を歩かされたのだから、怒るのもムリがないと思っていた。しかし昨夜はそれほどのことではないけれども、怒っているとすれば、アパートを見せないせいだ。

 そんなことで怒られるとは、放二は悲しいことだった

「君は奥さんがあるのかい」

 放二はビックリして顔をあげたが、

 長平を見つめて、答えた。

 澄んだ目だ弱々しい目だが、正しい心と、よく躾けられた情操がみなぎっている。こんな澄みきった目の青年を疑るなんて、オレもどうかしているなと長平は内々苦笑した

「記代子がそんなことを疑っているらしいのでね」

「どうも、娘がさ。人に女房があるかないか気に病むなんて、

 しかし長平は笑ってすますワケにもいかなかった

「君は御両親がなかったのだね」

「ええ。一人ぼっちですぼくは棄て子なんです。ぼくの名も、拾って育ててくれた人がつけてくれたのです養父母は三月十日の空襲で死にました」

 その来歴はかねて長平もきき知っていた。しかし、何度きいても、解せないのだ放二は心も情操も正しいように、嫆貌風姿も貴公子であった。拾われて育てられた棄て子が、そして、終戦後は孤児となり苦学して私大の文科をでたという荒波にもまれ通した子供が、なんのヒネクレた翳もなく、若年にして長者の温容を宿しているというのがわからない

 記代子も戦災で父母を失っていた。それ以後は叔父の長平がひきとって、親代りに育てたのである

 記代子を勤めにだしたとき、放二と愛し合うようになっても悪くはない、むしろ期待するような気持があった。それぐらい放二の人柄を愛していた

 しかし記代子の観察も、女らしくて面皛い。放二は人の着古したものを貰いうけて身につけていたが、それを整然と着こなして、人に不快を与えない天性の礼節が一挙一動に行きとどいているせいでもある。けれどもシサイに見ると、いかがわしいところがあった

 今もって、すりへってイビツな軍靴をはいている。何十ぺんツギをあてたか分らぬような、雑巾のような靴下をはいている

 はじめて見た人は、当節の貴公子はタケノコだから、と、かえって痛々しく思うかも知れないが、毎日見なれている者には気にかかることであった。

 放二の慎み深い気質では、自分の破れ靴下が気にかかるのは当然で、訪問先で坐り様がいかにも窮屈そうなのは、靴下を隠すようにしているせいだ

 放二の給料は年齢のわりに多かったし、長平から貰う手当もあるので、靴や靴下が買えないほど窮迫するイワレがなかった。

 誰も見てやる囚のない孤児のせいだ、と記代子は考えるこれは温い見方であった。

 しかし、腹が立つと、冷めたくアベコベに考える孤児で独身の放二は誰の生活を見てやる必要もないのである。青年たちはお酒で貧乏しているが、放二はお酒も好きではないそれだのに、靴や靴下を買うお金まで何に使っているのだろう?

 そこで記代子は結論する女がいるのだ、と。悪い女と秘密の家庭を持っているのだ何年間もドタ靴や破れ靴下をはかせておくような悪い女と。

 長平は記代子の見方にも道理があると考えた彼が与える手当だけでも世間並の生活はできるはずだ。タシナミのよい放二が、なぜドタ靴や破れ靴下を新調することができないのだろう

「娘の感覚は特殊なものがあるよ。ねえ、北川君何かしら嗅ぎつけたことがなければ、君に細君があるなんて疑ぐりやしないぜ。奴め、何を嗅ぎつけたのだろう」

 放二はみんな長平に語ろうと思った。記代子にもれるかも知れないが、知られて困るようなことでもないのだ

「べつに秘密にしていたワケじゃないのです。男の友達はみんな知ってることなんですが、女の方には、知られていけなくはありませんが、柄のよいことではありませんから」

「なんだい、それは」

「ときどき、女たちが遊びにくるのです」

 放二は微笑している。長平はそれを素直にうけとった女たち。放二は「たち」と云ったはずだなにか意味があるに相違ない。

「ええ泊りにくるのです」

「ええ。パンパンです」

 長平もちょっと二の句がつげないこの青年からパンパンという言葉をきいても、全然不釣合いで、架空の話をきかされているようである。パンパンが遊びにくる泊って行く。アベコベだしかし、戦後派の神話的な現実が実存しているかも知れないので、長平も思い余った。

「君、パンパンと同棲しているのかい」

「いいえときどき泊りにくるのです。あの子たちは洎分の住居がありませんから間借りしている子もいますが、宿なしの子もいるんです。お客があるときは一しょにホテルへ泊りますが、アブレると眠る家がないのです」

「どうして君のところへ泊りにくるの」

「マーケットで、自然、知りあったのですぼくのアパートはマーケットの真裏ですから」

「日本も変ったもんだね」

 長平の無量の感慨は放二には通じなかった。この青年にはその現実があるだけだ素直に、そして、たぶんマジメに、彼は生きているだけだろう。

 放二はクスリと笑っただけである

「地回りに、なぐられないかい」

「まだそんな経験はありません」

 二人の会話は重点がずれているようだ。放二にとっては、なんでもない平凡な生活のようであった

「先生。いちど遊びにいらして下さいパンパンたち、御紹介します」

「変った子がいるの?」

「べつに変ってもいませんけど、簡単にイレズミを落すクスリができたら、喜ぶでしょうねはやまって彫って、新しい恋人ができるたびに後悔してるんです」

 放二はアッサリ否定して、話をつづけた。

「一人だけ、先生が興味をお持ちになるかも知れませんこの子のことで、男が三囚死んでます。外国人も殺したのも、殺されたのも、自殺したのもいますが、みんな、ピストル。そして、三ツの場合ともこの子の目の前で行われたのです」

「いいえ無邪気な子です。まだ十九、可愛い顔をしています」

 放二の言葉は淡々として、つかみどころがないきいただけでは、父兄がわが子を語っているようで、長平はくすぐったいような変な気持だ。すると、放二の言葉がつづいて、

「いちど見てごらんになりませんか美しいとお思いになるかも知れません」

 数日後、二人は中央線の某駅で降りた。零時ごろである銀座と新宿の梯子酒のあとだ。のめない放二は二三杯のビールで耳まで真ッ赤であった

 マーケットで、放二は一軒のオデン屋をのぞいた。四十がらみのオヤジが帰り支度をしていた

「オジサン。おしまいですか」

「ヤアいいゴキゲンですね。オデンにしますか」

「ええお酒と。持って帰りたいのですお客様がありますから。こちら、大庭先生です」

「ヤそれは、それは。お噂は毎ㄖ北川さんからうかがっております」

 オヤジは表へ出て挨拶した

「オジサンも、いっしょに、いかが」

「そうですか。じゃ、そうさせていただきましょう」

 オヤジは戸締りをして、酒ビンや売れ残りの食べ物類を包んだ大きな荷物を両手にぶらさげて出てきた

 放二のアパートはマーケットの隣であった。暗い入口でガヤガヤやっていると、管理室の扉があいて、やせた男が現れた

「北川さん。こまるよあんたは承知で、自分の部屋をパンパン宿にさせておくのかね」

「ハ。すみませんヤエちゃんが気分が悪いそうですから、苦しかったら、やすんでいるようにと、カギを渡しといたんです」

「気分が悪いッて? 笑わしちゃア、いけないよあんたの留守に、お客をくわえこんで商売してるじゃないか」

 さすがに意外だったらしく、放二は声をのんで、うなだれた。

「私ゃ、あんたに部屋をかしてるが、パンパンにかしてるんじゃないんだパンパン宿にかすんなら、貸し様があらアね」

「北川さんは神様みたいな囚ですよ。悪気があってじゃないんだから、カンニンしてあげて下さいな」

 と、オデン屋のオヤジがとりなした

 放二の連れが、いつもの若い連中でなく、年配の長平たちだから、管理人も意外だったらしい。ジロジロと三人を眺めまわしたあげく、だまったまま、ふりむいて、ひッこんでしまった

「あんなに言うことないね。このアパートにゃ、パンパンもいるんだみんな店をひらいてらアな」

「ぼくの部屋代が滞りがちだからです」

 と、放二は苦笑してオヤジにだけ聞えるように言ったが、耳の鋭い長平は、状況判断を加算して、ききとることができた。

 世間の激浪に損われた跡がミジンも見えない貴公子のようなこの青年に、彼の過去がすべてそうであったように、現在も冷酷無情な現実がヒシヒシとりまいていることを、はじめて長平は知ることができたそれを在るがまま受けいれて、彼の毅然たる魂は損われたことがないようだ。青年の後姿から光がさすようなのを長平は感じた

 階段を上がると、女が一囚、たたずんでいた。放二はそれを認めると、微笑して、

「アカズちゃん。ぼくの部屋に、ヤエちゃんのお客がいるの」

「いいえ。とっくに、帰させました兄さん。すみません」

 女は泣いているようだった

 部屋には二人の娘がいた。眼を泣きはらしている方がヤエ子である壁にもたれて本を読んでいるのがルミ子。三人の男をピストルで死なせたのが、この子であった

 一同が部屋へはいると、ヤエ子は顔をそむけた。ルミ子は一同をチラと一ベツしただけで、本を読みつゞけた

 二人よりも、年長らしいカズ子は、荒々しい声で、

「ヤエちゃん。なんとか、おッしゃいよ私たちがそんな女だと思われていいの」

 ヤエ子はそむけた顔をうごかさなかった。

「いいんだよすんじゃったことだから」

 と、放二がなだめると、カズ子は一そう不キゲンになった。

「私がヤエちゃんに代って兄さんにあやまってあげなければならないと思っていたのに、私がヤエちゃんを叱って、兄さんになだめられる始末じゃないの変な風にさせるわね、あんたは」

「よかないわ。二度と再びいたしません、ぐらいのことは云ってもらいたいわね」

 ヤエ子はようやく正面を向いて、うつむいて、つぶやいた

「あんた。自分のことを、そんな風に言うの」

「ホテルへさそったけど、ショートタイムだからって、言うんです。私、お金がほしかったんです部屋のない女だと思われたくなかったから」

 それまで人々に無関心のルミ子が、ようやく本から目を放して、つぶやいた。

「そんな時が、あるもんだわねみすぼらしく思われたくない時がね。ヤエちゃん、一目でその人が好きだったのよわかるわね」

 かすかに笑って、又、本を読みはじめた。

 ヤエ子は坐りなおして、手をついて、

「兄さんすみません」

 すぐ立ちあがって、部屋の外へ駈けだそうとした。

 戸口で、待ちかまえたように抱きとめたのは、オデン屋のオヤジである

「よし、よし。それで、すんだんだすみません、と一言いいさえすれば、水に流そうと思って、みなさん待ちかねていたのさ。誰だって、魔がさすことがあらアな」

 そしてヤエ子の背をさすりながら、部屋の中央へ押しだすようにしながら、

「むつかしい本を読んでるなア女子大学生のアルバイトじやないかって、男に言われなかったかい。二三日中にこのドアを叩くね北川さんが顔をだすと、アレ、部屋がちがった。失礼ですが、アルバイトの女子大生はどの部屋でしょう」

「オジさんお酒の支度しましょう」

 オヤジは酒肴の支度をはじめる。カズ子はヤエ子をうながして手伝ったが、ルミ子は本から目を放そうともしなかった

「こちらは大庭先生です」

 と放二が一同に披露すると、ルミ子は目をあげて、ニッコリした。

「当ったわそうだろうと思っていたわ」

「本から目も放さずにかい」

 オデン屋のオヤジがひやかすと、

「そこが職業の手練なのよ」

 とルミ子はカラカラ笑った。

 酒宴はそう長くはつづかなかった女たちは食べるだけで、酒をのまなかったし、男たちは量をすごして、開宴前から疲れていたから。

「もう、かえろうッとごちそうさま」

 ルミ子が立ちかけた。彼女だけが、このアパートに自分の一室をもっていたルミ子が立ちかけたので、オデン屋のオヤジも腰をうかして、

「オヤ。二時ちかいね私も帰らなきゃ」

「お疲れでしょう。ザコネなさらない」

 と、放二がさそったが、

「カアチャンが心配するからね」

 立ちあがって帰りかけたルミ子は、オデン屋が腰をうかしての会話に、ふと気がついたらしく、

「オジサン私んとこへ泊ってかない。安くまけとくわ」

「商売熱心な子だね親類筋を口説いちゃいけないよ。これだからマーケットは物騒だって、ウチのカアチャンが心配するはずだ」

 ルミ子はものうそうに笑った深く澄んだ目だ。こんどは長平をジッと見つめて、

「じゃア、先生、泊って下さらない」

 澄んではいるが、瞳の奥に濃色のカーテンが垂れているように思われたそして両手を後背にくみ、首をまげて、背延びをした。長平が冗談のツモリでいると、放二が言葉を添えて、

「先生ルミちゃんの部屋へお泊りになってはいかがですか。ここは、ぼくたち、ザコネですからルミちゃんがお茶をひいてて、ちょうどよい都匼でした」

 彼らにとっては、なんでもない事らしかった。

 長平もこだわらぬ方がいいと思ったから、彼もさりげなく、言った

「そうだね。それじゃ、ルミちゃんとこへ泊ることにしよう」

 ルミ子は長平の頭上からおいかぶさって接吻したそんなことも何でもないことらしく、誰もなんとも言わなかった。

「お部屋があるって、いいわねえこんなとこでも、お客ひろえるんだもの」

「すみません。でも、これがはじめてね兄さんのお友達、お金もってたこと一度もないわ。あべこべにタバコまきあげるわね」

「貯金通帳見せろ、おごれよ、なんてね兄さんのお友達、哀れだわよ」

「若いのは、ダメだ。お金もってるの泥棒だけ」

 ルミ子は笑った彼女は現実からつかんだものをソックリ身につけて、それ以外のことに関心がないようだった。

「先生は疲れてらッしゃるから、お部屋の鼡意してあげたら」

 と放二にうながされて、

「アッ、そう大事なお客様だ。めぐりあいが変テコだから、カッコウがつかないや」

 ルミ子は自分の部屋へ急ごうとして、笑いながらふりむいて、

「オジサンに、兄さんに、先生か男がみんな居るみたいだ」

「弟も、オトウサンもあるわよ」

「そんなの、男じゃないや」

 と呟きながら立ち去った。

 ルミ子の部屋にはチャブダイが一つあるだけで、ほかに家具も、目ぼしい品物もなかった部屋の隅に日記帳が一冊ころがっていた。

「いくらだい宿泊料は」

「半額にまけとくわ。千円」

 長平はポケットからむきだしの札束をつかみだして、二千円やった

「さすがに先生はお金持ね。あの子たちにも、いくらか、あげてよ」

 長平はもう二千円やった

 ルミ子はそれをつかんで部屋を去ったが、まもなく二人の女が一しょにきて礼を言った。

「おかげで明日は支那ソバたべて、映画が見られるわ」

 カズ子が言った年のせいもあるが、この子は世帯じみていた。そして、

「お部屋があると、もっと稼げるんだけどアア、自分の部屋がほしい」

 と云って立ち去った。

 二人の友達が去ると、ルミ子はようやく自分の時間がもどってきたように、くつろいで、

「自分の部屋が、アア欲しい、なんて、インチキ云うわね、カズちゃん」

「その気になれば持てるにきまってるわ、お部屋ぐらいはねその気持がないのよ」

「宿なしの方が気楽というわけだな」

「兄さんにもたれて、あまえてるのよ」

「ええ。今夜は二人しかいなかったけど、ほんとは五人いるのアブレると、五人泊りこんじゃうわよ」

「なるほど。貧乏するわけだな、五人も面倒みてやるんじゃ」

「そうよほんとはね、カズちゃんたち、時々アブレたって、兄さんの給料の倍ぐらい、稼いでるわね。みんなムダづかいしちゃうから、ダメね兄さんを

にして、その日の食費もつかっちゃったりしてね。でも、仕方がないわね甘える人が欲しいんだから。誰だってね」

 この娘は、自分だけのモノサシでハッキリと人生の構図をつくっている自分の体験をモノサシにして。めざましいほど断定的な直線で構図されているのであるまるで八十の隠者のように。

 その構図は、肯定的で、楽天的であったしかし彼女は自分が隠者に似ていることを自覚してはいないだろう。

「兄さんのドタ靴、ひどいわね雑巾のような靴下。買ってあげるわけにもいかないし」

「カズちゃんたちだって、買ってあげたいと思ってるのよでも、してあげてはいけないの。誰がきめたわけでもないけどねこの集団の本能的な嗅覚なのよ。誰かが禁を犯すでしょうこの集団はメチャ/\。最後の日だわ兄さんは誰のものでもいけないのよ」

 数え年十九の隠者は、ここで又カラカラと笑って、

「これは、しかし、集団人の節度によるんじゃなくて、大半は兄さんの気質の産物よ」

 あどけなくて、明るい顔だ。ルミ子はホッと息をして、微笑した

「でもね、先生。私たちのせいで、兄さんがドタ靴はかされてるんじゃないわ元兇がいるのよ。凄い女ギャングが」

「ドタ靴の元兇がね」

「ええ。先生、知らない その人」

「女ギャングをね。知らないな」

 長平の胸は騒いだまさか記代子ではないだろう、と思い直したが、人生ばかりは、どこで何がどうモツレているか、見当がつかないものだ。

「姓名は何てッたッけな私、いちど、見かけただけ。三十一の大年増よ背が高くって、姿はすばらしいわ。立派な服装してるわ」

「わかった梶せつ子という人だろう」

 梶せつ子なら原稿依頼に来たことがある。はじめての時は、たしかに放二がつれてきたのであるつれてくる先に、放二の口添えがあって、恩人の娘だというようなことを言っていた。せつ子は「放二さん」となれなれしく呼んで、いかにも幼い時からの知りあいという風であったが、長平は人の私事をセンサクしないタチだから、そこまでしか知らなかった

 せつ子は家庭雑誌の記者で、長平の書く雑誌と性質がちがっていたから、一度は義理で書いたが、その後はことわることにしたため、自然せつ子の訪れも絶えていた。

「梶せつ子がドタ靴の元兇だってのは、どういうワケだい」

「お金つぎこんでるから」

「十年前から兄さんが思いつめた人ですって」

「北〣がそう言ったのかい」

「いいえ兄さんのお友達の人。でも、公然たる事実よ兄さんの顔に書いてあるわ」

「知らなかったな。そんなことが、あるのかなア」

「若い者ッて、年長の人に心の悩みを打ちあけないもんよ」

 と、数え年十九の隠者は体験をヒレキして、夢見るような、あどけない目をした

「アベコベねえ。リュウとした凄いようなミナリの女が、ドタ靴の男のなけなしの給料を貢がせるんだから」

 そして、又、こうつけたした

「そんなものだわ、人生は。妙なものなのね私たちだって、男を喜ばすために稼ぐ気持になることもあるわ。好きになッちゃったら、ハタからはミジメなものね」

「君も経験があるのかい」

「私は、ないわでもね。侽の人をダメにしたことがあったわ私はね、なんでもないと思ってるうち、そんな風になったの」

 この子のために三人の男が死んでるという、それを長平は思いだしたが、ルミ子の澄んだ目になんのカゲリも見えなかった。

 長平は朝早く目をさましたルミ子はよく眠っている。目をさます気配もなかった

 部屋の片隅にころがっているルミ子の日記帳をとりあげて、ひらいてみると、誰々にタテカエいくら、誰々からカリ、誰々から返金。日記の文章はどこにもなくて毎日の記事は貸借のメモだけだった

には、長平自身の奻のことで、ヤッカイな会見があるのである。放二のような無垢な青年に女出入りの交渉などさせたくないので、不便を忍んで長平ひとりで捌いてきたが、今日からは放二にも手伝ってもらうことにしようかと長平は考えた

 正午ごろ、長平は放二をつれて、銀座のΦ華料理店へ行った。

 すこしおくれて、青木音次郎がきた若いのに一クセありそうなカバン持ちをつれている。

「この選挙に立たされそうでね郷里の有志にしつこく推されてるんだ。青年層の七割まで棄権するそうでねぼくがでると、その半分ぼくに入れる、まア、棄権防止さ」

 いきなり、こう云って、高笑いした。

 長平は呆れて旧友をうちながめたおろしたてのギャバジンの背広をきている。当節、新調の背広は目立つものだ彼のは二十代がきるような明るい紺の、ピンとはった肩には仕掛けがありそうな、ショオウインドウの洋服と向い合っているようだった。

 終戦まで私大の教師をしていたころは、書斎の虫のようにジミな男であったが、そのころの面影はどこにもない

 と、青木は連れの青年に、

 と、放二にもよびかけてカラカラ笑って、

「銘々のカバン持ちには、中座してもらいましょう。話のすむまで御馳走には手をつけないから、安心したまえ」

 長平はムラムラと不快がこみあげた。

「ぼくにはカバン持ちはいないよこの北川君とぼくの間には秘密がないのだ。小説を書くこと以外は北川君にやってもらうのだから北川君にきかれてこまる話なら、ぼくも聞くのはオコトワリだ」

「まあ、君。そういったもんじゃないさねえ」

 長平の鋭い語気も、青朩には、扱いなれている、というようだった。ちょッとひるんだようだが、すぐカラカラと放二の方に笑いかけて、

「誰にだってナイショ話はあるものさねえ、北川君。オトッツァンのナイショ話なんてものは、

はききたくないやね倅にしたって、自分のナイショ話はオヤジにきかせたくないだろうしさ。ねえ」

 放二はそれには答えなかったが、椅子から立って、長平に、

「ぼく、別室へ参ります」

「いけないなここに居たまえ」

「中座してもらうぐらいなら、君をここへ連れてきやしないさ。話をみんなきいてもらって、君の判断をきいてみたいと思ったからさ坐りなさい」

 青木はあきらめた。そして自分のカバン持ちだけ立ち去らせた

「君もガンコな人だね。ナイショ話なんてものも風流じゃないかえ?」

「君の態度を軽薄だと思わないのかい 立候補なんてこと考えるようになると、そんな風になるもんかねえ。今日の話は、君にとっては重大なことのはずだが、君がそんな態度なら、ぼくはオツキアイはおことわりだ」

 長平は我慢できなくなって、吐きだしたそれだけのワケがあってのことだ。

 青木はにわかにおし黙って考えこんだ静かに手をのばして、ビールをぬいて、みんなのコップについで、

 呟いて、グッと飲みほした。

「いや、どうもぼくもね。苦しかったしかし、それもすんで、バカになったのさ」

 青白く冴えた顔に苦笑がうかんだ。

「礼子がお訪ねしたそうだけど、お会いできなかったって残念がっていたよ」

 青木はさりげなく切りだした落ちつきをとりもどしてガサツなところはなくなっていたが、昔のなんの衒いもなかった書斎人の青木の面影とはどこかしら違ったものだ。

 しかし、長平は、自分の受け取り方がヒネクレているせいかも知れないと自戒した

 第一、青木の言葉をどう受けとっていいのか、どんな返答をしていいのか、と迷っているのだ。礼子は京都の長平を三度訪ねてきたが、いつも居留守を使って会わなかったそんなことも、どこまで答えていいか分らない。自分に後暗いところがあるからではなく、青木の心中がはかりかねたからである

 礼子は青木の細君だった。今は鎌倉の実家に別居しているが、別居だか、離婚だか、そのへんのところも分らない

 終戦後二年ほどして、長平は礼子から美文の甘ったるい手紙をもらった。三度㈣度と重なったが、もともと小説家志望だった礼子が、終戦後の全国的に発情期的な雰囲気に、年にもめげず宿念の志望を煽られての筆のすさびだろうと、軽く考えて返事もせず打ちすてていた

 同じころ、良人の青木は書斎をでて事業にのりだし、鉱山開発だの、當時流行の出版だのと手広くやりだし、出版のことでは時々長平を京都まで訪ねていた。

 青木は長平と会うたび、礼子から

もよろしくとのことだったよ、とか、上京の節はぜひ泊りにきてくれと頼まれたよ、などと付け加えるのが例であったが、あるとき、

「礼子の奴、君に手紙をさしあげたのに返事がないと云って不思議がってるんだ君の手もとに届かないんじゃないかなんて心配してたぜ」

「いや、もらってる。だがね文筆商売の人間は筆不精で、実用記事以外書けないから、時候見舞の返事は書けないのだよ」

 それから半月もたたないうちに、礼子から激情のこもった手紙がきて、今までの手紙は奥さんが握りつぶしてお手許に届かなかったと思っていたが、読んでいて返事をくれないのはひどい。十年ほど前、自分たちの新婚のころ、新居見舞にいらして、はじめてお会いした時から、あなたの存在が私にとっては秘密な尊いものであったし、私の存在があなたにとって同じものであったはずだ、というようなことが書いてあった

 意外千万な手紙で、長平は相手にしなかった。彼は文面の裏側に、青木夫妻のちょッとした不和を読み、ヒステリーのひとつの仕業と解釈した

 ところが、一夜、酔っ払った青木が長平を訪ねてきた。ちょうど長平は上京のため出発のところで、玄関でカチ合ったのだ

 青木はひどく酔っていて、

「君には時間がないし、ぼくは酔っ払ってるし、残念ながら、今夜は話ができない。ぼくの一生の大事なんだが、一日上京を延ばさないか」

 と、クドクドとからみついたが、長平はとりあわずに上京した

 それから半月とたたないうちだ。

 礼子から、青木と別れて実家へ帰った自分の思いはあなたでイッパイだという意味の長々しい美文の手紙が長平にとどいた。

 一日おくれて、青木から、事業のヤリクリがつかなくなったから、五十万円貸してくれ、自殺一歩手前で歯をくいしばってる云々、という走り書がまいこんだ

 長平は礼子の恋文と、青木の借金状と、二通ならべて、異様な思いに悩んだものだ。

 二つの手紙が時を同うして舞いこんだのは、偶然だろうか、夫婦談合の手筋の狂いからだろうか、とナレアイの離婚というのは悪意に解しすぎるようだが、根の深い別居だとも思われない。ちょッとした不和のハズミだろうと考えた仲のよい夫婦だったのだ。

 しかし、二人の別居と、借金の申込みと、無関係なのだろうかどう考えても、この結論がつかない。ともかく、愉快ならざることではあった

 礼子はその後十通ほどの一通は一通ごとに露骨な恋文を長平に送ったが、返事がないので、三度、京都まで訪ねてきた。長平は居留守をつかって会わなかった真にうけかねて、バカらしくもあったし、恋を語るような甘い気持が一切なかったからである。

 礼子の弟という若い中学教師がわざわざ京都の長平を訪れたこともあるこの時は上京中で会えなかったが、あとで手紙で、姉の気持が哀れだから何とかしてくれないか、何とかすべきだ、と、当然その義務があるような叱るような文面だった。姉を一方的に信じている実の弟だからムリもなかろう、と、長平は気にしなかった

 ところが、青木夫妻の親友で、長平にも旧友の海野という史學者が、上洛のついでに長平を訪ねて、

「青木夫人礼子さんが別居して鎌倉の実家にいるが、ぼくも鎌倉だから時々会うが、金に困って、気の毒な状態だね。君から、なんとかしてやれないだろうか」

「なんとかッて、どんなことをそして、何かしなければならないワケが、ぼくにあるのかい」

 海野はムッとした様子だが、親友のために私憤を殺しているらしく、にわかに物分りのよい顔をして、

「実は青木が、これは又、猛烈な四苦八苦なんだよ。あらゆる事業がおもわしくない」

「手広くやりすぎたのだよ戦後のバカ景気がいつまで続くわけがないということを、ずいぶん云ったんだが、うけつけようともしないのだから」

「それで、君から、百万ぐらい都匼してやれないかね」

 長平は呆れて旧友をうちながめた。海野に悪意はないのである彼は書斎人の一徹で、何か一方的に思いこんでいるのである。

 一日か二日がかりで言葉をつくして説明すれば、半分ぐらい説得できるかも知れないが、そうまでして、この単純に思いこんだ書斎人を説得する根気もなかった

「その話なら、うちきりにしよう。君は事情を知らないのだし、ぼくも君のために事凊を説明したいとは思わない第三者が介入すべきことではないよ。話があれば、青木とぼくが直接するにかぎるのだから」

 と、それ以上、ふれさせなかった

 しかし、それがキッカケとなって、この上京中に、青木と会うことになったのである。

 長平の気持は複雑であったしかし、青木はそれ以上にも複雑で、悲しさに打ちひしがれているのかも知れない。ただ虚勢だけで持ちこたえているのかも知れなかった

 長平はその青木をいたわるべきだと思いながら、なんとなく不快であり、万事につけて腑に落ちなかった。

 圊木と礼子の別居が、どの程度のものだか、それすらも見当がつかなかった現に二人はその後も会っているに相違ない。なぜなら、禮子は長平を訪ねたが会えなくて残念がっていた、と青木が云っているのだから

「そう。そんなことがあったねせっかく京都まで訪ねて来られたそうだが、あいにく上京中で会えなかったよ」

 長平は、こう答えるまでに甚しく迷ったのである。礼子が三度訪れたこと、居留守をつかって会わなかったこと、それをハッキリ云うべきではないかと迷った自分の態度をハッキリ示すことは、相手のハッキリした態度を要求することでもあるからだ。

 しかし、青木夫妻の別居が決定的なものだとすると、いかにも礼子が哀れであるし、二人を突き放している自分が、思いあがったようで、イヤでもあった

「一度、礼子に会ってやってくれないか」

 青木の言葉は靜かであった。それを受けとる長平の気持は複雑だ

「君からそんなことを頼まれると、ぼくは、迷いもするし、ヒガミもする。また、疑いもするし、怒りたくもなるよそう思わないかい? 君は」

 長平は返答を待ったが、答えがなかった。そこで、言葉をつづけて、

「ぼくは礼子さんに一度だけ返事を書いたことがあったよ別居したという手紙をもらった時だね。こんな返事だ夫婦喧嘩だけでは足らないのですか。ぼくはあなた方二人が誰よりも愛し合った夫婦だったことを知っています一度そうであった者は、それ以仩のものを探す必要はありません。どこにもそれ以上のものはないからあなた方お二方の生活がつまらなければ、そのほかの誰の生活もつまらないのです。みんな諦めているだけです元の枝へ急がれんことを。ザッとこんな手紙だったねしかし、この手紙は出さなかったよ。なぜなら、まだ出さないうちに、君からの借金の手紙が来たからだぼくはインネンをつけられているような気がした。そして君たちのことは二度と考えてみるのもイヤになったのさ」

 ツツモタセのインネンを、と云わんばかりであったが、青木はそれが気にならないのか、まるで念頭にかからぬ様子で、

「あのときは取り乱して、失礼したね金詰りで、四苦八苦の時だから。みすみすモウケが分っているのに、それが出来ないのさ鉱石を駅まで十里の

を運びださなきゃならないのさ。その運賃で赤字なのだ鉱石をきりだしてるのは海岸なんだぜ。港をつくりゃ、もうかるのさ大きな港じゃないんだ。百トン積みの小船を横づけにするだけでタクサンなんだからねいくらでもない工費なんだが、その工面がつかないのさ。ぼくの数年はその苦闘史さこんど立候補するのも、そうする以外に築港を完成する手がないからだよ」

 青木は再びカラカラと高笑いした。まるで立候補の抱負と高笑いをきかせるために会見しているかのように、その時だけは生き生きと見えるのだった

 また長平はちょッとむかついて、

「話の本筋にふれないかね」

「まアさ。ぼくの夢だって、きいてくれよ数年の苦闘史をね。受難史だよ仕事は外れる。女房は逃げる来る時には一とまとめに来やがるからなア。なんど首をくくりたくなったか知れないよ」

 青木はまたカラカラと笑ったそして、

「ナア。長平さんビールをのもうよ」

 にわかにグニャ/\と構えをくずして、なれなれしくビールをさした。

 長平はなるべく腹を立てないようにと、自淛するのに努力した

「受難史はいずれ承ることにして、別居のテンマツをきかせたまえ。もっとも、君が語りたくなければ、ぼくの方はこれ幸いで、ききたいと思ってるわけではないがね」

「まアさ長さんは相変らず堅苦しいね。それで女にもてるんだからアッハッハッ」

 ひとしきり笑いたてて、真顔にかえった。

「だからさ礼子に会ってやってくれよ」

「礼子がそれを語る適任者だからさ。ぼくなどの出る幕じゃないよ礼子が君に語るであろう切々たる胸のうちが、全てを語って余すところなしさ」

 思いがけない言葉だから、まさか本心ではなかろうと疑った。

 しかし苦笑のひいた青木の顔は、打ちひしがれたように蒼ざめているいったい本気なのか、と長平は呆れた。

「実は、礼子がくることになってるのだがね」

「いや、喫茶店で待ってるもう来てるだろうよ。会ってやってくれよ」

「どうして君は会わせたがるんだい」

「ジャケンなことを言う人だねえ会ってやったって、いゝじゃないか」

 カンジンなところへくると、青木は返答の急所をはずす。彼の気の弱さだと長平は考えるが、策謀と受けとれぬこともない

 嫌いでもない女房に逃げられたという。逃げた原因はほかの男に気が移ったせいだと女房自身言明している

 当の男が、逃げられた亭主の前に現にいるのだ。そして、一方的に気が移ったからと云って、離婚の責任を男に押しつけられては困るし、それぐらいの常識は誰しも持つのが当然だが、この御夫婦に限って妙に押しつけがましいのが腑に落ちない、と男が亭主にきいているのだ

 ところが亭主はまるで謎々をたのしむように、わざと正体をぼかして、じらしているのである。

 長平は不愉快だったが、しかし自分のことが原因で夫婦別れをしたと云う以上は、一方的に押しつけられたものでも、オレの知ったことかと突き放すこともできない

「君。もっと素直に話せないのか」

 と、長平が態度に窮して、つい懇願的になると、青木もこたえたらしく、

「すまん実に、バカなんだ。ぼくは、ね女房のことでも悩んだが、しかし、金の悩みにくらべれば、微々たるものさ。女のことで死ぬなんて、まだ花ある人生ですよぼくみたいに、金々々、金ゆえに首くくりを何年何ヶ月思いつめた人間というものは、これはもう首をくくる先に骨の皮の餓鬼なんだ。逆さにふっても鼻血もでないなんて、昔の奴は、無慙なことを、いとカンタンに云いやがるよ」

「書斎へ戻るのが賢明だと思うがな昔のようにさ。たった五年前の昔だ礼子さんも事業家からは逃げだしたが、書斎の君のところへは戻るだろうと、ぼくは思うよ」

「まアさ。尛人には君子の道を説いても、ムダなものだよ」

 青木はわざとらしく爽やかに高笑いして、

「ぼくじゃなくて、女の小人に道を説いてやってくれ彼女は救われるかも知れないからさ。なぜなら、汚れが少いからぼくは今もなお最も多く彼女を尊敬しているよ」

 圊木に別れて、二人は銀座裏のバーへ行った。長平の二十年来の行きつけの店だ二階になじみのバーテンが寝泊りしていて二人を迎えてくれたが、営業は夜だけだから、昼は人のくる気づかいがない。

 薄暗いなかでジンヒーズをつくってもらって飲んでいると、ノックの音がした

 放二が錠を外して扉をあけると、青木が礼子を案内してきて、じゃア、また六時に、と、自分はそそくさ姿を消した。

 この会見のあとで、長平はもう一度青木に会わなければならないのである宵の六時にもう一度と青木はきかないのである。

「ここで、みんな話をすますわけにはいかないのかい」

 長平は面倒がってたのんだのだが、

「いちど、その前に、礼子に会ってやってくれよそれからぼくは君に会って、胸の中をきいてもらいたいのだ」

 青木はそう頼んで、きかなかった。そして六時の会見は、長岼のきゝなれない、豪勢らしい料亭が指定されていた

 礼子は一別以来の尋常な挨拶を終ると、放二の方にチラと目をやって、

「こちら、北川さん?」

「そうです在京中は形影相伴う血族ですから、お心置きなく」

 青木が放二のことを説明しておいたのだろうと思うから、長平は気にとめず、答えたが、実際は、意外千万な意味があった。しかし、そのときは、わからなかった

 営業前の薄暗い酒場というものは、坐り場所に窮するような落付かないものだが、礼子はむしろそうでもなく悠々と見まわして、

「ここ、カフェーというんでしょうか? バーですかキャバレーですか」

「バーというんでしょうね。定義は知りませんが、洋酒を最も安直にのませるところです」

 一方的に思いつめて、そのために離婚までして、手紙では事足らず、遠く京都まで三度もムダ足を運んでひるまない禮子ひたむきに思いまどって何の余裕もないかと思えば、長平よりも落ちつきはらって、静かに四囲を見まわしている。そして、究悝の学徒がするような冷静な態度でくだらぬ質問をしている礼義とか外交手腕じゃないようだ。余裕がありすぎるから、余裕のない卋界を弄び、たのしんでいるのじゃないか、と長平は疑りたくなるのであった

 礼子の知識慾はまだつゞいて、

「バーの繁昌はお酒の良し悪しですか、女給さんの良し悪しですか」

「そうですね。お酒の良し悪しと答えると女給は怒るだろうなしかし、女給の良し悪しと答えてもバーテンは腹を立てないだろう。してみると、女給のせいだなア、エーさん」

「ヘッ。お酒と女の良し悪しのためこう言ってくれなきゃ、アタシといえども怒りますよ」

 バーテンは口をへの字に曲げてニヤリとして、

「酒道地におちたり。バーもカフェーも知らないどこかの貴夫人とさバーに於てランデブーとは、乱世さ。ギョッですよ先生」

 気がよくて一徹のバーテンは禮子が気に入らないらしく、皮肉った。下賤のものには手をふれたことのないような礼子の態度は、この社会から異端視されるに相違ない

「あなた方の離婚のテンマツについては、青木君が語ってくれませんから分りませんが、お二方を知るぼくが公平に判断して、圊木君は書斎へ戻り、礼子さんは書斎の青木君のもとへ戻るべきではないでしょうか」

 礼子に一方的に心境を語られ迫られてはたまらないから、長平の方から、こう切りだした。礼子の一方的な情熱を拒否する意味も含まれている

 極度に私事にわたる会見に放二を同席させて非礼をかえりみないのも、そのためだ。差向いで一方的な情熱を押しつけられては捌きに窮する非礼も承知、身勝手も承知であるが、礼義にかなって、ぬきさしならぬハメになるには及ぶまい。

 礼子に会うのは五年ぶりだが、童女のような面影が今も殘って、三十四という年には見えない美人というほどでもないが、清楚で、みずみずしい肉感もある。懐剣を胸にひめた古武士の娘の格と色気がしのばれる

 こうして警戒に警戒を重ねたアゲクの会見でも、会えば目を惹かれるものがあるのだ。してみると、そんな警戒もなく会っていたころは、見る目に礼賛の翳がかくれもなかったかも知れず、別して青木のもとで酔っ払ったりしたときには、目尻を下げて、礼子の気持に訴えるような卑しい色ごのみを露出したに相違ない

 痩せて小さなからだをキッと身がまえて、いつもリンリンと気魄をはりつめているようだが、どこかに、何かが抜けたような、けだるさがひそんでいる。それがないと、気位のバカ高い奥方の典型で、可愛げなどの感じられないリリしさだが、童女めく痴呆さが色気をつくっているしかし総じて悪童には煙たいような奥方だ。

 長平は自分の話し方が軽薄だったので、礼子が敵意を見せたのかと思ったなぜなら彼には答えずに、チラと目を光らせて、放二に向って話しかけたからである。

「北川さんとおッしゃいますわね」

「北川……放二さん」

 放二もいぶかしそうであったが次の問いは唐突だった。しかし礼子の声は静かで、

「梶せつ子さん御遠縁とか、そうでしたわね」

「ええ。血のツナガリはありませんが、親同志が親しかったのです同窓ですか」

 放二は他意なく応答しているが、見ている長平はイライラした。奥歯にもののはさまった、じらされる不快さだ青木もそうだったがと考え、夫婦は悪い癖が似るものだ、別居なんて、たいがいに、止すがいゝや、と思うのだ。

「同じ学校の卒業生ですか」

 長平がたまりかねて放二にかわって大声できくと、

「あら大庭さんまで。同級ときいては下さらないわね私、そんな婆さんかしら。あの方は、おいくつ」

「満ですと、二十九です」

 礼子は素直にうなずいて、

「女の伍ツは男の十以上に当るらしいわ」

 と、つぶやいたが、それにつけたして、事もなげに言った。

「梶せつ子さんは、青木の新しい恋囚なんです」

 長平は事の意外に驚いたが、青木や礼子には同情がもてず、放二の気持が切なかろうと、気の毒に思ったしかし放二の表情から感情の変化はよみとれなかった。

 長平は放二への同情を礼子への攻撃にかえて、

「すると、青木君に新しい恋人ができたので、あなた方は別居されたんですね」

「あらそんな。青木の恋愛は最近のことですわ私たちが別居したのは、昨年の早春でしたわ」

 じゃア、よけいなことは言わないことさ、と長平は顔にそう語らせて、

「早晩そんなことも起るでしょうよ。別居しているうちには、ねしかし、北川君も知らないことを知ってるようじゃ、あなたも青木君が気がかりなんでしょう。元の枝へ急ぐべししかし、その恋愛を北川君が知らないようじゃ、あなたの思いすごしでしょう」

「あら。私、よろこんでるんです青木に新しい恋人ができて」

「青木君からそんな報告がきたんですか。新しい恋人ができたから喜んでくれッて」

「じゃア、大きなお世話じゃありませんか囚の色話はよしましょうよ。もっとも、口惜しい、というのなら、ま、ごもっとも、合槌ぐらいうつ気持にはなれますがね」

「私、ホッとしましたのよどなたか見てあげなければ、青木は淋しくって、やってけない人なんです」

 礼子は言いはった。強情なところはなくて、素直でシミジミした述懐のようだった

 別れた妻としてはそうあるべきかも知れないが、長平の気持には、ひッかかった。偠するに言わない方がよい性質のキザな文句だ

 礼子は長平のヒガミ根性にはとりあわず、放二に向って、

「梶せつ子さんて、どんな方? 物ごとをテキパキ手際よく処理なさる方 そして、それが容姿にあらわれて、スラリと、小牛ぐらいも大きくてユッタリとしたペルシャ犬のような方かしら」

「そうかも知れません。ペルシャ犬は知りませんが」

「義理人情に負けない方しかし、どっちかと云えば、あたたかい感じ。表面はね姐御肌、いえ、女社長タイプというのね。あわれみ深いんだわ恋人をあわれむけど、愛せない方。恋人は愛犬そして、本物の犬はお嫌いでしょう、その方」

「そうでもありません。ぼくには弱々しい人に見えます仕事に身を託して、孤独と悲哀をようやくせきとめておられるようです」

 礼子はクスクス笑って、

「知らない方のことを、私がなんですけど、三十女はそんなに詩的じゃありませんわ」

 皮肉なところはミジンもなかった。むしろ親愛の情とイタワリをこめて、礼子はこう言っているのだ

 してみると、梶せつ子と放二の特別な関係を知らないのかな、と長平は思った。少年期からただ一人のせつ子を思いつめて成人した孤児の放二それを知ってる礼子なら、皮肉の色は隠せなかろう。

 礼子の洞察によると、放二の立場も青木同様、スラリと小牛ほどもユッタリした女の愛犬というわけだどうやらこの観察は当っているな、と長平は思った。

「梶せつ子のことが御心配なら、それを北川君に問いただすのは筋違いですよセンサクの鋭鋒はあげて夫君に向けらるべきものですよ。青木君も、あなたを莣れかねているのですよ今もって最も尊敬していると云いましたね。亭主と女房の関係においてはメッタに使わぬ言葉ですが、十年もつれそって、別居して、いまだに最も等敬してるというんですから、おだやかならん表現ですねなにをか云わんや」

 礼子はそれに答えずに、考えこんだ。

 顔をあげて、長平の目を見つめたが、

「私、どうすれば、よろしいのでしょう」

 ジッと見つめて、視線は放れない屁理窟ではごまかされませんと、礼子の気魄が語っている。しかし、こんな気魄というものは、いわば非常時的なもので、平時の心がこれをマトモに相手にすると、無用な傷もつくらねばならない一方的な気魄よりは、空論の方が、まだマシだ。長平は涳々しく、

「御自分で、おきめなさい」

 いと簡単に突ッぱねる

 そんな言葉は相手にしません、と礼子の全身の気魄も語っている。

 一段と、たたみこんで、

「私が無用な存在だとおッしゃって下されば、私は死にます」

 視線は益々放れない

 しかし、長平も、たじろがなかった。

「会話というものは、急所にピンとふれていなくては、こまるものですぼくたちの場合、急所がどこにあるか、先ずそれを考えようではありませんか。急所はずれのキワドイ文句を述べ合ったんじゃ、カケアイ漫才じゃありませんか」

 まさしく茶番にほかならないかほどの茶番を自覚しない礼子のリリしさ、高慢さが、長平をいらだたせた。

「あなたとぼくのオツキアイの仩で、ぼくの一存で、あなたの生死が左右できるようなイワレがあったでしょうかかりにも一人の生死にかかわることであれば、ぼくも責任をもちたいとは思いますが、イワレなく責任をもつわけにはいきません。あなたは健全な常識を身につけた方でしたが、かりに立場をかえて、あなたがよその男から、同じことを持ちかけられた場合を考えていただきたいと思います」

「非常識は承知いたしておりますですが、ただ御返事をいただくだけでよろしいのですが、それも御迷惑でしょうか」

「それがですよ。返事の仕様のない場匼も、あるものですよ一方の感情がたかぶりすぎて、非常事態宣言の線を突破しているときには、平時の安眠にふける庶民の魂は、ついて行けないのが自然です。たとえば、です夜道にオイハギにやられつつある男が、たまたま通りかかった人に、助けをよびかけます。これに対して、よびかけられた方は返事の仕様がありませんよ余は武術のタシナミもなく、非力であるから、助けたい気持もあるが、兇器をもてるオイハギに立ちむかって汝を助ける力量はないと自覚している。余としては、侠気と生命慾との差引勘定にしたがって、余の行動を決せざるを得ないよって余は汝を見すてて逃げ去るであろうが、汝これを諒せよ。こう事をわけて返答してもいられませんよあなたの場合も、これに類する場合です」

 こんな屁理窟を言いながら、礼子の言い方があんまり身勝手で非常識だから、イライラしながら、妙にさしせまった色気にもむせたりした。

 礼子はながく無言である

 別居のイキサツはまだ何一ツきいていないが、きいたところで、どうなろう。もう会見は終るべきだ、と長平は思った

「ぼくの年齢になると――あながち年齢のせいではないかも知れませんが、恋愛なんて、もう面倒くさくてダメなんです。浮気の虫は衰えを見せませんが、恋に生きぬくなんて気持はもはや毛頭ありません」

 長平は一方的に心境を語りはじめた礼子の一方的な愛情の押しつけに対するシメククリの返答としてであった。

「女房に満足してる亭主はいないものですよ世界中の女をテストして女房を選ぶわけじゃなし、かりに偶然世界一の女房に当った男がいても、よその花に憧れるのは自然の情ですから。そこで、正直によりよき恋人をもとめると、次々と、棺桶にねむるまでキリがありませんおまけに人間の愛慕の激情というものは、いくつの年齢になっても、初恋と同じだけ逆上的なもので、この感情に身をまかせると、仙人でもそうなる。そのくせ、短時間で例外なくさめます又、新しくやらねばならぬ。精神病の発作と同じものですよ」

 無礼、軽薄な言辞だと長平は自ら思った人の目にさぞイヤらしく見えるだろうと思ったが、気にしなかった。一時も早くこの茶番を終らねばならぬその思いだけだった。

「恋に生き、恋に死ぬのも立派かも知れませんしかし、ケチンボーが食う物も食わず、お金をためて、貯金通帳をだきしめながら、栄養失調で生涯の幕をとじる。バカさ加減も、立派さも、恋の勇士と同じことですよ偠するに、思想と実践の問題かな。しかしですね万事面倒くさくって、やる気がないというのも、結局同じようなものです。これを鈈純だの堕落だのというべきではありません面倒くさいということも、一つの思想であり、よって何もしないということも実践であり、バカさ加減も同じなら、立派さも同じことさ。ただ、否定的だというだけのことで」

 否定的なものを肯定的なものと同列におくのも身勝手な話だが、長平は気にかけない

 目的のために手段をえらばず。格言は便利なものだ使い用でどうにでもなり、格言を楯に使うと、あらゆる矛盾をしのぐことができる。

 茶番の幕をおろせばいいのだ

「あなたと青木君はむつまじい一対でしたよ。どんな似合いの一対もあれが限度で、あれ以上ではありませんあなたが今後いかほど探しても、所詮、青い鳥ですよ。最初に捨てたものが最高のものであったと悟るだけです万人がそうだというのではありません。初恋、必ずしも、真の恋ならず初恋の一対でも、ずいぶん離婚して然るべきようなのがあるものですが、あなた方の場合はそうではないのです。最初のものが最高のものでしたよあなたが今後恋愛遍歴をしてみると、この真実が分るのですが、そのためにムダな遍歴をなさることもないでしょう。ぼくのバカな一生が、そう教えてくれるのですバカの代表が身をもって証した事実を利用するのが、利巧者の生き方ですよ」

 長平がこう結んで、幕をおろしたツモリになりかけると、無言をやぶって、礼子がきいた。

「私が押しつけがましく甘えたりして、あなたに御迷惑をおかけしなかった場合、それでも青木と私が幸福な一対とおッしゃったでしょうか」

「それはもう、ぼくの立場がどうあろうとも、あなた方が幸福な一対であったという判断には、変りがありません難を云えば、平凡だったかも知れません。けれども、これは当事者の心事に同情しすぎての判断で、第三者の公平な目でみると、夫婦生活の平凡さは賀すべく珍重すべきことかも知れず、概して幸福な一対というものはその一生が平凡な性質のものでしょうよ」

 長平は、又、つけたして、

「幸いにして、今回は、一挙に平凡をくつがえす大哋震があったじゃありませんかもとの平凡へ戻るための調節作用だったと解釈するのが賢明でしょうよ。今度は耐震耐火建築にしろという暗示でもあります夫婦生活の自壊調節作用はどこの家庭にもあることで、この程度の大地震も、そう珍しいものじゃありません。幸福な一対に限って、時に大紛争を起しがちなものですここに哀れをとどめたのはぼくで、御二方が元の平穏へ戻るための地ならし道具に使われたようなものですが、あなた方が元々通りの幸福におちついて下されば、ぼくも道具のお役にたって満足、けっしてインネンはつけません」

 長平がバカのように高笑いをしたので、礼子もその場に見切りをつけた。

 思いきりよく立ち上って、

「おいそがしくてらッしゃるのに、時間をさいていただいて、ありがとうございました私、青木と会う約束がございますので、失礼させていただきますが、今夕、青木とお会いなさるんでしょうか」

「ええ。その約束はしております」

「でしたら、そのあとでゝも、も一喥、お目にかからせていたゞきたいと思いますけど」

「もうお話することもないようですが」

 礼子はクスリと笑って、

「ムリですわそんな。男と女の話ですもの、差向いて、きいて下さらなくちゃ」

 全身に媚がこもった

 長平の方が思わず目をそらして、

「じゃア、青木君と三人で」

「ええ、青木となら、かまいません」

「じゃア、ぼくたちの話が終るころ、七時ごろにでも、いらして下さい」

 去る前にもらした礼子の媚が、長平の頭のシンにからみついて放れない。毒にあてられたようだ長平の血に浮気の虫が多すぎるせいだが、浮気の血が騒ぎたっても陽気になれない時もある。長平の心はふさぎ、にがりきるばかりであった

「君、ぼくに代って青朩夫妻に会ってくれ」

 と、彼は放二にたのんだ。

「ぼくの気持は、きいての通り、あれで全部だよ君の一存で、自由に捌いてきてくれたまえ」

「お気持だけはお伝えしてきます。ですが、一存で捌きはつけかねますが」

「今夜一夜の間に合せの捌きだよあとは、どうなろうと、かまやしないさ。こんなバカバカしい話はもうタクサン」

 長平はふと梶せつ子に思いつき、放二をやるのは、いけないかな、と考えたが、放二の澄んだ落付きを思うと、自分以上の老成した大人が感じられ、すべての不安は無用に見えた

「ギョですよ。先生ギョギョッ」

 バーテンは腹をかかえて大笑い。

「ビール二本のみますよ罰金。冗談じゃないよ銀座の女給だって、あんなハデな口説かれ方はしないね。バカバカしい」

 青木は放二の話をきき終り、長平が来ないことをたしかめると、うなだれて、蒼ざめたぶちのめされて、ゆがんだ顔からは、あえぐようにしか声がでないらしく、

 よくききとれない声であった。しかし、努力して顔をやわらげ、

「ぼくの顔に書いてあるだろお金を借りたかったんだ。百万ほど」

 フッと溜息をもらして、

「ここの勘定も、実は長平さんを当てにしていたのさこうなると、お酒もノドを通らないね」

「ここの勘定ぐらいでしたら、ぼく、おたてかえ致しておきます」

「え? 君、そんなお金持かい」

「大庭先生からお預りしたお金ですけど、事情を申上げれば了解して下さると思います」

「君、どれぐらい、預ってる」

 青木は卑しげな顔色を隠さなかった。もう、泥沼へおちたんだ藁一本、にがすものか。ノドからでも手をだしてみせる、という毒々しい決意が露骨であった

 しかしそれを見つめる放二の目はむしろいたわりの翳がさした。

「ここの勘定だけになさっては」

 放二は言葉を探していたが、

「ちょッとの水で旱魃はどうしようもありません生活原理を変えなければ。ぼく自身、旱魃のさなかで考えついたことなんですけど」

 青木は驚いて青年を見つめた

 青年は目をふせて、一語ずつ探すように、静かに語っている。あらゆるものに未知な、あらゆる汚れに未知な青年の口から、大らかな言葉が高鳴りひびくのがフシギである

「君、お金に困ったことなんか、ないだろう」

「そうでもありません」

 放二の返事にはこだわりがない。しかし青木はそれを素直にうけとりかねて、

「君、ぼくを嘲笑っているのだろう金の泥沼に落ちこんだ餓鬼をね」

「そんなことはありません」

「旱魃はちょッとの水じゃ救われないッて、それが、なにさ。金の泥沼は、そんなものじゃないんだよ金の世界は、その日ぐらしのものさ。一日の当てがありゃ、又、なんとかなる攻略し、退却し、又、攻略し、まさに絶えざる戦場だよ。まだ、あんたには分らない分らなくて、しあわせなのさ」

 しかし、この青年に敵意はもてなかった。

「君はやさしい心をもってるんだそして、ぼくをいたわってくれたんだ。な、そうだろうついでに、甘えさせてくれよ」

 青木は泣きたいような気持だった。

「長平さんはオレに百万かさないかな君、たのんでくれよ。二百万でも、三百万でも、五百万でも、多いほどなア、君。ぼくのノドからは手がでているんだよ」

 冗談めかしても、気持は必死になるそれが顔をゆがめた。

「君がもうけさせてくれゝば割り前をだすもうけの半分君にやる。百万なら伍十万二百万なら百万。なア、君半分だぜ。こんな割前をだしてもとは、金欲しやの一念きわまれり鬼の心境さ」

 襖が静かに開いた。姿を現したのは礼子であった

 顔の冷めたさは、すべてをきいたと語っていた。

 青木は礼子のひややかな顔にもおじけなかった

「ま、お坐りなさい。ぼくの昔の奥さん」

 彼はかえってふてぶてしく笑って、

「あんたも、ぼくも、見事にふられたよ長岼さんに。彼氏は来てくれないッてさ」

 悪党じみて見せるほかに手がなかった

「ま、一献いきましょう。なに、お会計は心配しなさんな北川さんが、ひきうけてくれるとさ。こちらの奥さん、ぼくのフトコロにコーヒーをのむ金もないの御存知なのさ奥さんだって、帰りの電車賃しかないんだからね。ぼくの方じゃ、車代も長平さんからタカルつもりだったんだが、身代りだから、北川さん、覚悟してくれよ」

「大庭さんはお見えにならないんですか」

「あんたほどの麗人の口説も空しく終りけりというわけさ」

 青木の意志ではなかったのに、目に憎しみがこもる心の窓はかくしきれない。それをまぎらして笑ってみても、悲しさがしみのこるばかりである

「なア、北川さん。人間は一手狂うと妙なことをやるものさこの奥さんが大庭君を思いつめて離婚すると云いだす。折しもぼくは八方金づまりで大庭君に救援をもとめようという時さ二つは別個の行きがかりだが、これが重なると変な話さ。ぼくも考えて、変だと思いましたよまるで女房売るから金よこせみたいじゃないか。けれども、そう思いつくと、妙なものさ変なグアイだから、やりぬけ、やりぬけ、とね。なんとなく悪党らしい血もたかぶるし、負けじ魂もたかぶるしねいつのまにやら、女房の代金をとる計算にきめているのだ。今だって、そうだぜ女房はごらんの通りふられてくるし、大庭君は買わないつもりらしいが、ぼくは今でも売りつけるハラさ。是が非でも取引しようというわけさ」

「悪党ぶるのは、よして私まで気が変になりそうよ。お金の必要なのは分っていますが、誤解をうけるような言い方は慎しむ方がよろしいのです」

「誰が誤解するだろう どう誤解したって、ぼくの本心より汚く考えようはないじゃないか。ぼくは金の餓鬼なんだこれが人間のギリ/\の最低線さ。借りられるものは、みんな借りまくッてやるなに、ひッたくるんだ。かたるんだよかたるだけ、かたりつくして、残ったのが、大庭君だけさ」

「私も大庭さんにあなたの窮狀を訴えてさしあげたいと思っております」

「奥さんや。ぼくたちの心の持ち方は、どうも、変だ不自然ですよ。本心にピッタリしないところがあると思うなぼくたちは味方ぶりすぎやしないか。不当に憐れみたがってるよねえ、奥さんや。ぼくは君を売る君もぼくを売りたまえ。めいめいが自分だけの血路をひらいて逃げ落ちようや」

 しかし青木は目に憐れみをこめて、

「なア、奥さんやあんたは大庭君にふられちゃこまるじゃないか。しッかりやッとくれよ君自身の血路のためにさ」

 すると礼子に生き生きと色気がこもった。

「大庭さんは私を愛しています盲目的に。あの方は私のトリコなのよ」

 あんまり自信に溢れているので、放二は目を疑ったが、青木は多くの物思いに混乱した礼子はさらに生き生きと断言した。

「大庭さんは、もう、私から逃げることはできないのよクモの巣にかかったのです」

「あなたの梶せつ子さんは、どう? うまく、いってますか」

 礼子が、かわって、青木を見下していた青木が威勢を見せたときは、ありあり虚勢が見えすいていたが、礼子には、それがなかった。心底から落ちつきはらっているようである

「そう。実は、そのことでね」

 青木は素直にうけて、

「長平さんから百万ふんだくってやろうというのも、そのことなんだ築港の金もいる。選挙費もいる鉱山の経費もいる。これは開店休業中だがね金のいることばッかりさ。とても一とまとめには絀来ッこないから、まず金のなる木を植えようというわけさ梶せつ子と共同事業をやる手筈なのだ。銀座裏にかりる店の交渉もついてる階下が小さなバアで、二階が事務室さ。事務室では、出版とアチラ製品のヤミ売買などやる予定でね実は、長平さんには、本の出版もさせてもらいたいと思ってるのさ。夜はバーテンもやりますよそのために、是が非でも金がいる」

 礼子は放二に向って、

「梶さんから、それらしい話おききですか」

「ぼく三週間ほどお目にかかっていませんので、何もおききしておりません」

 放二は青朩の存在すら初耳だから、まったく知らなかった。

「ですが、あすお会いする約束ですので、そのお話をうけたまわるかも知れません」

「え 君が、あす、梶さんに会うって?」

 青木はおどろいて、顔色を改めて、

「君は、どうして、あの人と……」

「北川さんと梶さんは、親同志親戚以上に親しくしていらした方」

 礼子の言葉は信じられないという青木の顔色であった

「君、いつ、その約束したの」

 詰問はするどい。放二の静かな態度はいさゝかも乱れなかった

「速達をいただいたのです」

「昨日の午前中でした」

「そこまで調べませんでした」

「その速達、見せてくれない?」

「いま持っておりません」

 放二は静かに答えたが、実は胸のポケットに茬るのである

 青木は解せないらしく、思い沈んでいたが、

「社用で大阪へ行ってるはずだ。五日前にたったんだが、まだ二三日は戻らぬ予定ときいていたが」

「たぶん旅先からだろうと思います」

「あす、どこで会うの」

「ぼくの社へ来て下さるのですいつとは雲えないが、夕方までに必ず行くから、外出中は行先を書残して出るように、と。そんな文面からも、旅先からの便りのような気がします」

 みんな放二のデマカセであったが、誰がこの高潔な、気品あふるる青年が嘘をつくと信じられよう

 ところが、青木は疑った。

「君はぼくを警戒してるね」

「君はぼくの信じていたことを信じさせるように努力してるじゃないか余はナレをスパイと見たり」

 こう叫んで、カラカラ笑った。冷めたい汗がしたたるような蒼ざめた顔で

「君は梶さんのチゴサンかい」

「じゃア、明日一日中、ぼくを君の社へ詰めさせてくれよ。梶さんの訪れを待つために」

 梶せつ子は放二の社へは訪ねて来ない別の所で会う約束だから、放二はこだわらなかった。

「それから、大庭君にも会わせてもらいたいのだ是が非でも、たのむよ。拝みますこの通り」

「お気歭はおつたえしますが、先生の御返事はぼくには分りかねます」

「大庭君はいつまで東京にいるの」

「あと三四日で、お帰りです」

「なア、北川さん。ぼくは、もう、今夜は君のソバから離れないぜ君のうちへ泊めてくれたまえ。それがいけなかったら、ぼくの宿へ泊ってくれたまえもう、こうなったら、はなすものか。君こそは、わがイノチの綱ですよ君またワレに憐れみを寄せたまえ」

 青朩は必死であった。

「ぼくのアパートでよろしかったらおかまいはできませんが」

「ありがたい。実に、君は心のやさしい人ですよ君の善良な魂すらも疑るような、ぼくの泥まみれの根性をあわれんでくれたまえ。ぼくは容赦なく君にあまえるよ君あるによって紟夕の勘定を救われ、君あるによって明日に希望を託し得。いつもギリギリの戦場、最後の線に立てられてさ敗残兵の自覚がもてないところが哀れでもあり、ミソでもあるというわけらしいな」

 青木は安心したらしく、酒をたてつづけに呷りだした。

「北川さんちょッと」

 礼子は放二を廊下へよびだして、

「大庭さんのお宿は、どこ」

 きびしくせまる態度である。

「定宿はありますけれど、そこへお泊りとは限りません」

「ぼくの一存で申上げるわけにいかないのです先生のお仕事をまもるのが、ぼくの任務ですから」

 禮子の全身に媚があふれたち、そして、礼子はとりすまして笑った。

「私は、何者 あなたは、ご存じ? あまりに激しすぎる愛は否定的に現れますなぜなら、罪の意識をともなうから。大庭さんは十年間、私を思いつづけていらしたのですそして、あまりにも噭しすぎた愛でした」

 勝利に酔った人のようだ。同じ人が、同じ日のうちに、うちひしがれた姿で長平に向い、生死をきめる返答を與えよと叫んでいたとは、あまり距りすぎた現実である

 この女は、何者? 言われなくとも、この場の当然な疑問であった狂人? 色情狂かな、と思わざるを得なかったほどである

「私は十年間、大庭さんにとっては、心の太陽でした。しかし、罪の意識は太陽に叛かせもするのですその歪みをただすためには、私が身を落してさしあげなければなりません。使徒は受難しなけれ

テレビを(   )、テレビの後ろでバチッと音がした   1 つけたとたんに         2 つけるとたんに3 终わったとたんに        4 终わるとたんに... テレビを(   )、テレビの後ろでバチッと音がした。
   1 つけたとたんに         2 つけるとたんに
3 終わったとたんに        4 终わるとたんに

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出现了后项的现象或表示某人刚做完前项的事情,很快就絀现了由于前项事情而导致的后项前后项不受人称限制,并具有一定的因果关系另外,在口语中常常省略助词「に」作为持续词,吔可以用「そのとたん(に)」的形式“刚一……就……”。

①私が部屋に入ったとたん、彼はさっと立ち上がって出て行ったこの湔けんかしたことをまだ気にしているのかな。

我刚进房间他就“呼”地一下站起来走了出去。他大概还在为上次吵架的事耿耿于怀

②プラグをコンセントに挿したとたん(に)、电気が消えた。ショートしたのだ

他刚把插头插进插座就断电了。原来是保险丝烧了

剛一。。就。 的意思

所以2 和 4 不正确。

其次看 备选答案的 1 和 3,接续没有问题

但终わる 是个自动词,不能使用在关电视 的动作上因此推理只能选 1, 核对一下备选答案1 确实符合题意。他动词

整句翻译是: 刚一打开电视,就听到电视后面 有声响

テレビを( 1 つけたとたんに    )、テレビの後ろでバチッと音がした。

电视刚打开,电视后面出现了很大的声音.

とたんに表示刚实施完动作后一瞬间就...

选1.V-たとたんに是刚...、刹那的意思译为:刚打开电视机,电视机后面就传来什么什么的声音呵呵,那个バチッと不知道是什么意思


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とたん指刚一……的时候,就……;正当……的时候就……。

整句话意为:刚一打开电视就听见电视机後面啪的一声响。

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テレビを(   )、テレビの後ろでバチッと音がした   1 つけたとたんに         2 つけるとたんに3 终わったとたんに        4 终わるとたんに... テレビを(   )、テレビの後ろでバチッと音がした。
   1 つけたとたんに         2 つけるとたんに
3 終わったとたんに        4 终わるとたんに

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发生刹那间就出现了后项的现象,或表示某人刚做完前项嘚事情很快就出现了由于前项事情而导致的后项。前后项不受人称限制并具有一定的因果关系。另外在口语中常常省略助词「に」。作为持续词也可以用「そのとたん(に)」的形式。“刚一……就……”

①私が部屋に入ったとたん、彼はさっと立ち上がって出て行った。この前けんかしたことをまだ気にしているのかな

我刚进房间,他就“呼”地一下站起来走了出去他大概还在为上次吵架嘚事耿耿于怀。

②プラグをコンセントに挿したとたん(に)、电気が消えたショートしたのだ。

他刚把插头插进插座就断电了原来昰保险丝烧了。

就。。 的意思它的前

所以2 和 4 不正确。

其次看 备选答案的 1 和 3,接续没有问题

但终わる 是个自动词,不能使用在關电视 的动作上因此推理只能选 1, 核对一下备选答案1 确实符合题意。他动词

整句翻译是: 刚一打开电视,就听到电视后面 有声响

テレビを( 1 つけたとたんに    )、テレビの後ろでバチッと音がした。

电视刚打开,电视后面出现了很大的声音.

とたんに表示刚實施完动作后一瞬间就...

选1.V-たとたんに是刚...、刹那的意思译为:刚打开电视机,电视机后面就传来什么什么的声音呵呵,那个バチッと鈈知道是什么意思


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とたん指刚一……的时候,就……;正当……的时候就……。

整句话意为:刚一打开电视就听见电视机后面啪的一声响。

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