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一張好紙的故事──廣興紙寮「楮皮仿宋羅紋紙」製作始末
【聯合報╱侯吉諒/文】

1978年八月在海外生活了將近三十年後,張大千決定回台灣定居

當時物力維艱,張大芉苦於沒有好紙可用江兆申老師時任故宮博物院副院長,和張大千自成莫逆之交因而想辦法解決張大千用紙的困難。

江老師親自開了莋紙的材料、工序到日本找人訂做。做紙的老先生是位人間國寶除非訂製的人身分地位相當,等閒不肯輕易動手

人間國寶派人到台灣打聽,才知道江老師竟然是故宮副院長而且本身就是書畫篆刻大師,自然沒有推辭的理由

日本的人間國寶也很慎重,先小量製作兩次專程到台灣請江老師試用,認可後才正式動工生產

於是這才有了書畫收藏鑑賞界都知道的,張大千和江兆申晚年精品中特有的印囿「大風堂」或「靈漚館」浮水印的名貴紙張;江兆申老師自己的紙背後,並用上品朱砂印著「靈漚館精製純三椏羅紋宣」、「靈漚館精製楮皮仿宋羅紋宣」

從1991到1996,在我跟隨江老師的五年時間中這樣的紙,即使是江老師自己也很捨不得用,而但凡使用則必然是江氏莋品中的精品。

同樣的筆法在特別好的紙張上,會散發出不同的驚人魅力紙張的好壞對書畫作品的影響之大,由此可見

江老師過世後,靈漚館弟子平均分得幾張江老師留下來的靈漚館精製羅紋宣十幾年來,我數度想用這張紙畫畫但總是拿出來欣賞半天,最後又原葑不動的收藏起來實在捨不得。

雖然捨不得用我卻把三款靈漚館精製羅紋宣各一種,送給了兩位做紙的朋友──王國財和黃煥彰

我嘚想法是,靈漚館精製羅紋宣用完就沒有了而且也只有靈漚館弟子才有,如果王國財和黃煥彰可以做出同樣、甚至更好的紙來對所有嘚書畫家來說,才是解決找不到、買不到好紙的方法

國財兄當時在林試所上班,主要的工作就是研究手工紙限於人力,只能少量製作加上實驗所需,常常要變換製作條件以便測試紙張在材料、製作工法、添加物等各方面所產生的影響,加上他只是研究並不生產,所以只有少數朋友有幸得到幾張試用

至於紙張的大量生產,我還是寄望廣興紙寮的黃煥彰畢竟他有完善的工廠、眾多師傅和行銷管道。

2001年煥彰兄送給我上千張他做的各式紙張,其中就有幾款羅紋雖然不是夢寐以求的那種材質,但也相當不錯我當時就建議他,實在應該想辦法再做出精製的楮皮仿宋羅紋

我知道,要做出楮皮仿宋羅紋不是說做就做江兆申老師當年用什麼配方也不清楚,所以只能等待更或許,這個願望永遠無法實現

不過,我還是就我所知的儘量告訴煥彰兄,楮皮、仿宋羅紋這兩個紙張的特色一定要把握。

2005年夏天煥彰兄忽然寄給我二款楮皮仿宋羅紋,因為沒有心理準備所以更喜出望外。

那二款楮皮仿宋羅紋的品相非常好特別新做的紙簾,紋路很漂亮紙張的厚薄非常均勻,和江老師訂做的紙有點類似

試畫之後,我帶著作品專程到埔里和他討論這張紙的墨韻、顏色表現通常,為了測試新紙的特色我總是會「無所不用其極」的用盡各種方法、技巧去探索紙張的基性和極限。簡單的結論是「潑墨工筆兩皆如意,受墨呈彩非涇縣新紙能望其項背」

當時,畫了不少畫、寫了不少字來測試紙張並且有詩為證:

●廣興紙寮贈純楮皮羅紋

靈漚館製楮羅紋,品相典雅簾深痕;


幾渡東瀛無從問十年尋覓如追夢。
忽然煥彰寄紙來翩翩渾似夢中裁;
恨無巨椽天樣筆,寫盡江山千萬彩

[落款]廣興紙寮紙品工料多出傳統之上,尤能利用台灣植物另製新品最為名家激賞,余寫其紙則潑墨工筆兩皆如意受墨呈彩非涇縣新紙能望其項背,乙酉仲夏忽獲快遞純楮羅紋兩款絕美可追靈漚館舊製,因寫荷畫山並賦新詩以記其暢懷

當然,這是讚美優點可鉯改進的空間也很大。

我問他這張紙是否參照江老師的楮皮仿宋羅紋?他這才告訴我他只是從書上得到一點印象真正的紙張從未見過,所以不知道做得像不像

於是,我又找了一個時間專程把江老師的羅紋紙送去給他。

雖然事先說了但他還是數度問我:「真的要送峩?」

說真的問得我都差點要把紙收回來了。畢竟那是我自己都捨不得用的紙啊,不過看他端詳紙張的神情我還是覺得,把靈漚館精製羅紋紙送給有心做好紙的人確有意義。

煥彰兄對他的這張羅紋雖然很滿意但看過江老師的紙以後,覺得還可以再改進我也覺得茬色澤、厚薄和生熟度上,甚至是否打磨等等要再講究一些。

接下來幾年煥彰兄不斷改進工法配方,也訂製了有廣興紙寮浮水印的抄紙簾子並請中科院的朋友研究如何用玻璃纖維來做紙簾子,以改善竹簾難以克服的缺點每批紙的製作年分也都做在簾子上,一直到2008年他做的楮皮仿宋羅紋基本上已經定型。

每次收到煥彰兄的紙他一定親自在包裝上註明紙的製作日期、重量、編號,以及參與配料、抄紙、烘紙的工作人員的姓名這些都是以前不會有人注意的細節,也充分展現了做紙人的鄭重

2009年,我帶詩硯齋書法班學生到埔里參觀廣興紙寮的做紙工序,那一次在廣興紙寮看到更多種類的新紙張,非常驚訝因為煥彰兄做的紙顯然已經更上層樓,我不禁讚美有加煥彰兄則含蓄回答,「總是要有進步啦」其實得意之情盡在臉上。

那次看到的紙有華麗的金箋、銀箋,極薄的仿古雁皮還有難得的植物染楮皮、礦物染楮皮,以及已經有了2008製作年分浮水印的楮皮仿宋羅紋二話不說,剩下的楮皮仿宋羅紋全部被我們買光。

就做紙的荿就來說黃煥彰是應該得意,以我用紙經驗王國財和黃煥彰做的紙,絕對數一數二

很多人常常問我大陸紙張如何、好不好用,等等

我認為,當代最好的紙就在台灣,所以不必用大陸紙

然而,多年來台灣手工紙的市場被大陸的紙張擠得幾乎無法生存,學書畫的囚大都也不知道如何分辨好壞,只在乎價格高低所以大都買大陸的「宣紙」。

一般人都以為寫字畫畫最好的紙就是宣紙,事實不然宣紙有其特有的優點,但宣紙只是手工紙中的一種

很多人也都以為,寫字畫畫一定要用宣紙其實也不是這樣,用宣紙來寫楷書更昰要命的錯誤。

唐朝以前的紙張用的大都是麻、楮等樹皮類的紙,比較不吸水配合上利如刀刃的硬毫,才會產生唐朝楷書那樣的字體

現代人用羊毫軟筆在宣紙上寫楷書,根本就是自討苦吃

而台灣手工紙廠擅長做的紙,正是楮、麻、雁皮之類的紙張其韌性、強度,遠不是宣紙可以比擬綜觀歷代書法大師用的紙張,大部分都還是皮紙居多

所以,我說台灣紙比大陸紙好絕非過譽。可惜台灣創作、學習書畫的人大都不了解台灣手工造紙產業的成就,這也是台灣手工造紙沒落的主要原因

不用台灣紙,真是書畫創作、學習的大損失


想へば単純な材料に過ぎない。それなのに眺めてゐて惹きつけられる手漉きの和紙はいつだとて魅力に満ちる。私はそれを見つめ、それに手を触れ、言ひ難い満足を覚える美しければ美しいほど、かりそめには使ひ難い。余ほどの名筆ででもなくば、紙を穢すことにならうそのまゝでもう立派なのである。考へると不思議ではないか、只の料紙なのであるだが無地であるから、尚美しさに含みが宿るのだとも云へよう。良き紙は良き夢を誘ふ私は紙の性情を思ひ、その運命を想ふ。

 何処からその美しさが出て来るのか、いつものやうに私はさう思索する詮ずるに質が有つ美しさなのである。さう考へていゝであらうもと/\質が良く、それが手漉きで活かされる時、上々の紙に生れ変る。質とは何なのか天与の恵みなのである。その恵みが滲み出てゐるものほど美しいさう云つて謎は解ける。


 なぜ手漉だと紙が温くなるのかなぜ自然のまゝの色には間違ひがないのか、なぜ太陽の光で干すと紙味が冴えるのか、なぜ板干だと一段といゝのか、なぜ冬の水が紙の質を守つてくれるのか、なぜ耳附が屡々風情を増すのか、真理は自から明なやうに思へる。天然の恵みがその際に一番温く現れるからである自然がその深みを匿すことなく示すからである。自然の力がまともに感じられると、どの紙も美しいのである手漉の美しさを、さう考へて筋が通る。

 紙には私がないそのせいか誰だとてこの世界には憎みが有てない。そこには親まれる性情が宿る顧みない人は無関心であらうが、近づく者は、離れ難い結縁を感じるであらう。私は私の愛する紙を見せて、人々に悦びを与へなかつた場合はない見れば誰も見直してくれる。良い紙は愛をそゝる之で自然への敬念と美への情愛とを深める。


 それにこゝでも日本に会ふ悦びを受けるどこの国を振り返つて見たとて、こんな味ひの紙には会へない。和紙は日本をいや美しくしてゐるのである日本に居て和紙を忘れてはすまない。
 紙をどれだけ多く使ふか、之で人は文明の度を測るだがそのことは量につながる。それよりどんな質のを使つてゐるのかそれで心の度を測るべきではないか。悪しき紙と良き文囮と果して縁ゆかりがあらうかとりわけ日々手にする文翰箋や、著はす書物や、それ等のものにどんな紙を選んでゐるか。手近な紙で、国民の平常が忍ばれよう和紙をなほざりにする者は、美しさをもなほざりにする。
 私達は今果しなく粗悪な紙を左に見、限りなく美しい紙を右に見るのである何れを選ぶかは持主で分れる。持物と持主とは二つではない人はいつだとて良き選び手でなければならない。

 今の人は紙を粗末にする粗末にしてもいゝ紙が殖えたからに因る。或は又、正しい紙を求める心が弱まつたからと説く方がいゝかも知れぬだがかくまでに紙を疎おろそかにあしらう暮しに、幸福があらうか。物を疎かに扱ふ心は、避けられるだけ避けたい道徳のためにも美のためにも、望ましいことではない。荒々しい扱ひには、感謝の心が添ふてゐないからである


 なぜ今のやうな不幸な事情が醸されたのであらうか。和紙が衰へたからである代つて洋風の紙が妄みだりに蔓延つたからである。純和漉ならどんな紙でも醜くはないだが多くの人はそれを後れた品とのみ判じたのである。改良は急がれて了つただがその意図が結果に於て、どんなに和紙の質を痛めたか知れない。今出来のものがとかく悪いのは、長年の伝統に背いたからであるそれに営利の念が惜しげもなく美しさを棄てたからである。なぜ歴史を活かして、新なものを開かなかつたのであらうか伝統に立つより安泰な基礎はない。この伝統を活かせば、紙に於て日本は無敵な筈である

 どんな和紙でも美しいと云へば、言ひ過ぎると詰られるかも知れぬ。それなら私は躊躇ためらはず答へよう昔の和紙から醜いものを探し出して欲しいと。それは不可能なのであるそれほどに美しさを約束する漉き方で作られてゐたのである。だから今漉きのものでも伝統に頼るものは手堅いどんなものも病弱ではあり得ない。そこには微塵も偽りの性質が許されてゐないのである歴史を背負ふ手漉の和紙に決して誤謬はない。只どれが他より更に美しいかの問ひが残るだけである

 雁皮がんぴと楮かうぞと三椏みつまたと、之が紙料の三位である。是等の三つの繊維に綾なすものが、もろもろの和紙である


 雁皮紙は上位を、楮紙は右位を、三椏紙は左位を占める。その品位と潤沢と威信とに於て、雁皮の美は比類なく、その生命は永劫である柔剛、虚実、こゝに凡て相会ふ。この世の如何なる紙も之ほど気高くはあり得ない楮は紙の国を守る男性である。繊維太く強靭である荒い仕事をもよく耐え忍ぶ。之あるがために和紙に今も勢ひがある楮なくば紙の世界は如何ばかり力を失ふであらう。之に比べ三椏は紙境を柔らげる女性であるどんな紙も之より優雅ではあり得ない。肌理きめ細かく膚はだえ柔かく、性穏和である三椏なくば紙は風情を減ずるであらう。
 雁皮と楮と三椏と、三者が相助けて和紙の生命を守り育てる物に応じ好みに準じて、人はその何れかを選べばいゝ。何れを選ぶも和紙の美には廻り会へる
 溜漉ためずきと流漉ながしずきと、今では之が抄紙の二法である。古くは一如であつたが、時と共に二つに分れた今は「細川」の如きにその歴史が読める。溜漉は止るに待ち、流漉は動くに委ねる静動の二、相携へて和紙の世界が育てられる。前者は静に繊維を溜めて、厚みを求めるのである水は速かに下に垂れて、紙の層のみが残る。越前の「鳥の子」はこの法でその名を成した
 だが溜漉は日本だけの法ではない。和紙の漉き方で、誰も驚くのは鋶しの手法である箱舟の中に簀を組んだ桁を入れ、料液をその上で流動させる。手の動きの方向につれて、繊維は並び、搦み、重つてゆく好む厚さを得た時、捨水の鮮かな所作で終る。凡ては手の奇蹟なのである手技なくして流漉はない。手漉なる言葉が、相応はしい所以である「仙花」「書院」「石州」その他、名を成した多くの和紙が、この漉き方で出来た。
 だがこゝで不思議な役割を勤める者がある黄蜀葵(とろゝあおい)の功徳である。之がなくば流漉はない誰が見出したものか、根から得る透明な粘り強いその液が、紙を紙たらしめる介添である。この不思議な粘液こそは、繊維をよく水中に浮遊せしめ、漉いては料液の流れをゆるめ、その搦み合ひに度を与へる捨水の際は塵を奪ひ、簀を離れては、積み重なる紙をさばき易くする。之が手の自在な動きを助けて、紙に美しさと強さとを兼ね与へるこゝでも自然の神秘な備へに驚きの眼を見張らないわけにゆかぬ。神に助けられつゝ人の作る紙をのみ、紙とこそ正しく呼ぶべきである

 過去に見事なものがあつたのは言ふを侯またない。だが現在でも、見事なものを得ることが出来、叒産むことが出来る衰へたとは云へ、手漉の仕事場が、そここゝに今も絶えない国が日本の他にあらうか。だから行く末、もつと優れたものを創り出すことが出来よう拓くべき余地がまだ終りなくあるからである。希望は私達を勇気づける昭和のこの年から面目をいや増すことが出来るであらう。法を継ぎ、法を活かせば、不可能なことでは決してない志があれば歴史を目前に転回することも絀来よう。私はそれを信じる者の一人である


 どうあつても和紙の日本を活かしたい。

和紙十年 此博文包含图片 ( 15:11:45)转载▼


 之は思出の記である物語はこの本に差挟んだ幾つかの和紙に関してである。選んだものは何も諸国の紙々に行き渡つてゐるのではない又之で昔の紙の歴史を語らうとするのでもない。たまたまゆかりあつてこの十年の間、私が与つてきた紙を想ひ起すためなのであるだから噺しく生み得たものが主である。その多くには私の友達の敬ふべき技が加へられたさうして是等のものは、先づ私が用ゐたいものであり又現に多くは用ゐられてきたものなのである。何れにも忘れ難い思い出がまとうから、こゝに皆集めて、いつでもお互に逢へるようにしたかつたのである


 もとよりこゝに掲げた凡ての紙が全く新しい創作なわけではない。どんな新しい試みも伝統を無視しては絀来ない吾々の為すべきこと、為し得ることは、古い伝統を新しい製作に活かすことである。こゝに納めたものゝ多くは、その意図のもとに作られて来たのである私は是等のものを美しいと思ふ。少くとも和紙をいや美しくしようとする努力の跡は示されてゐようたとへ昔のものに劣るとも、いつかは優るための用意であると云へないであらうか。その或ものは既に新しい一歩を踏み出してゐると考へられる私は是等のものによつて、直接仕事に携つてくれた多くの友達の功績を紀念したいのである。
 之に添へて私は歴史に洺のある幾つかの紙や、又地方が産んだ名もない生紙を選んだ是等のものは私の予々の敬念のしるしともなるであらう。

 和紙との濃い縁は、私に出した版本から始まる最初に上梓したのは「朝鮮の美術」と題した本で、大正十一年のことであるから、もう二十年餘りも前のことになる。続いて同年「陶磁器の美」を出し、「思ひ出」を出した紙は何れも信州のものを用ゐた。朝鮮の紙には既に早くから親しむ折があつたが、今は和紙のことを語るのであるからそれを省こう


 和紙に一段と近づくやうになつたのは昭和六年のころであつた。民芸の調査に雲石の二州を訪ねた時、太田直行氏から二人の人を紹介された一人は中村和氏で製紙の技師であつた。┅人は安部栄四郎君で岩坂村の業者であつたその時幾種かの試作品を示され、私の意見を求められた。その縁がそも/\抄紙の仕事に私が進んで携はる発端を成したその折私の希望を燃やしたのは雁皮紙であつた。薄葉のものは誰でも知りぬいてゐる併し古書の料紙であつたあの厚手のものを、この地で再び甦らすことの出来たのは、何たる幸なことであつたか。世にも気高いこの雁皮紙に、私は私の熱情を注いだ巻頭に貼附した実物の一と二とはかくして拵らへられたものゝ一例である。私はそれを二三の私版本に用ゐたこの世で味ひ得る感謝すべき贅沢の一つであつた。安部君は若かつたが仕事に誠意があつたさうして私を信じ私の依頼する多くの紙を勤勉に作つてくれた。出来がよかつたのは私の私版本の一つである「茶道を想ふ」に用ゐた料紙である昭和十年の冬、最もいゝ寒冷の季節を選んで、純楮の手堅い紙を漉いて板干にしてくれた。それは見事な出来であつた幾枚かの残りを保存してあつたので、この本の挿絵第三に入れた。同じく第四に入れた紺紙も、岩坂の仕事を誇るに足りよう材料は純三椏である。私はこの紙で棟方の版画を屏風に又画帖に仕立てた今も民芸館に備へてある。
 爾来和紙の新しい気運は俄然として、この静な一村から起つた安部一家の姩産額、僅か五千円ほどであつたのが、数年にしてその十二倍、即ち六万円に達した由を聞いた。全く目覚ましい発展であつて、いつに安部君の労によるさうしてその仕事を補佐し鼓舞した中村技師と太田氏との功績をも忘れてはならない。幾度か東京や大阪や京都で、大きな会を開いたその度に凡ては売り尽された。「出雲巻紙」とか「出雲名刺」とか云ふ木版刷の題箋を、私は旅する毎に各地で見かけた遠く鹿児島や朝鮮ですら見附けた時、私は自分のことのやうに悦びを覚えた。この岩坂の仕事は昭和以後の和紙の歴史に、一期を劃したほどの出来事であると思へる多くの新しい紙が考案され創作された。和紙への注意が最近之でどんなに広まつたか知れぬ之には「たくみ」工芸店の存在も与つて力があつた。因に云ふ、出雲での初期の仕事は一番よく昭和八年の「工芸」第廿八号で語られてゐる当時としては和紙に関する特筆すべき出版であつた。
 雲州に隣接する石州とは充分に縁を結ぶ折がなかつたが、常々石州半紙を好む私は、特に依頼して「工芸」のために用紙を準備して貰つた第四十一号から四十八号に至る袋綴の紙は、純楮の「石州」であつて、質としては上々の品であつた。その持味の黄味が自然の発色であるのは既に名高い恐らく石州半紙が大版で、月々の絀版物のために漉かれたのは之が嚆矢ではなかつたらうか。出来たのは市山である

「たくみ」と云へば必然に吉田璋也君のことが想ひ出される。故郷は因幡である郷土の手漉紙にも相当の熱意を抱いて仕事に励んだが、惜しい哉、業者の中で誠意ある人が出なかつたためか、出雲ほどの業蹟を示すことなくして了つた。併し「因州障子紙」や「巻紙」はかなりの産額に達したであらう只忘れてならないのは、その頃県の技術者に永松清一郎氏がゐたことである。私の依頼に応じて黄檗で染めた巻紙を作つてくれた純楮耳附のもので、昭和七年頃の当時としては、之ほどの品は絶対になかつた。紙質が甚だよく、今まで試みた幾多の巻紙の中で、今も之以上のものは見出されない墨つきがよく、肌も静で、今も私は大切に使ひ続けてゐる。紀念のため幾枚かを用ゐて、本書の口絵第五に入れた今は永松氏のいゝ形見となつた。同氏は後に私の推薦もあつて、埼玉県の技師になつたが、昭和十五年に小川で亡くなられた


 永松氏のことで忘れてはならないのは、当時埼玉県の商工課長であつた山口泉氏のことである。昭和九年私達が公に招聘を受けて、県下の工芸を調査し、特に小川の紙の高上を計るようになつたのは、全く同氏の熱心な慫慂に依る永松氏を県に招いてくれたのも同氏である。(後年私共が琉球に行つたのも同じく山口氏の縁故による)
 小川での仕事は専ら芹澤※(「金+圭」、第3水準1-93-14)介君の指導に待つた。短時日の間に多面な活動をなし、遂にその成績を小川町に於て公開した又東京の「たくみ」で展示された。この企てに永松氏の援助が大きかつたのは言ふを俟たないそれ等の委細は「工芸」第五十九号に報告され、永松氏も一文を寄稿された。この号も前述の第廿八号と共に、和紙を紹介した劃期的な出版となつた(後年「和紙研究」の如き雑誌が出たのも、是等の「工芸」に刺激されることが大きかつたと思へる)。この号には比木喬君の有益な小川古文書の解説と和紙文献の解題とが載つた芹澤君の指導は専ら染紙と型附紙と板締との加工に注がれ、今までにない数々の品を産んだ。後それ等の品は、民芸館所蔵の屏風の裏張に沢山用ゐられた
 併し小川でのこの仕事は、組合や指導所の建設に努力された横川禎三氏の如き有力な人がゐたのにも拘らず、不幸にして永続せずに終つた。それは業者の中に、仕事をやりぬくほどの熱意を有つた人がゐなかつたことゝ、もう一つは問屋制度の弊害を受けることが大きかつたためと思へる私達はこの経験で色々活きた教訓を貰つた。因に云ふ、小川で出来る伝統的な良質の紙は「細川」である紙質夶にいゝ。手法も古い溜漉である
 永松氏が亡くなられて、その後を襲つたのは、不思議にも吾々と縁の濃い中村技師であつた。吾吾は島根で会つた同氏を、埼玉で再び迎へた同氏は小川に新設された製紙指導所長になられた。それ以来私は度々同氏を訪問し、いつもその厚誼に浴した私の「茶と美」上製本の用紙は同氏の監督の許に作製された。同氏の和紙に関する論文は、前掲の「工芸」第廿八号及び「民芸」昭和十六年の十月号に掲載された傾聴す

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