手持无沙汰な照灯持ちだけが客を求めて当て所なく歩いている.

いでや此の世にうまれては、ねがはしかるべき事こそおほかめれ

御門の御位は、いともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき一の人の禦有樣はさらなり、たゞ人も、舎人など給はるきははゆゝしと見ゆ。其の子孫までは、はふれにたれど、なほなまめかしそれよりしもつかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したりがほなるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

法師ばかりうらやましからぬものはあらじ、「人には木の端のやうに思はるゝよ」と清少納言がかけるも、げにさることぞかしいきほひまうにのゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀ひじりのいひけんやうに名聞くるしく、佛の御をしへにたがふらんとぞおぼゆる。ひたぶるの世すて人は、なか/\あらまほしきかたもありなん

人は、かたち有樣のすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うちいひたる、ききにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かずむかはまほしけれめでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性みえんこそ口をしかるべけれ。

しなかたちこそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにもうつさばうつらざらんかたち心ざまよき人も、ざえなくなりぬれば、しなくだり、顏にくさげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、ほいなきわざなれ。

ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、管絃の道、又有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ手などつたなからず走りがき、聲をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそをのこはよけれ。



いにしへのひじりの御代の政をもわすれ、民の愁へ、國のそこなはるゝをもしらず、よろづにきよらをつくしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、おもふところなく見ゆれ

「衣冠より馬車にいたるまで、有るにしたがひて用ゐよ。美麗をもとむる事なかれ」とぞ、九條殿の遺誡にも侍る順徳院の禁中の事どもかゝせ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。


萬にいみじくとも、色このまざらん侽は、いとさう%\しく、玉の巵の當なきこゝちぞすべき

露霜にしほたれて、所さだめずまどひありき、親のいさめ、世のそしりをつゝむに心のいとまなく、あふさきるさに思ひみだれ、さるは獨寢がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。

さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからずおもはれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ


後の世の事心にわすれず、佛の道うとからぬ、こゝろにくし。


不幸に愁にしづめる人の、かしらおろしなど、ふつゝかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、まつこともなく明し暮したる、さるかたにあらまほし

顯基中納言のいひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覺えぬべし。


わが身のやんごとなからんにも、まして數ならざらんにも、子といふものなくてありなん

前中書王、九條太政大臣、花園左大臣、みな族絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る末のおくれ給へるはわろき事なり」とぞ、世繼の翁の物語にはいへる。聖徳太子の御墓をかねてつかせ給ひける時も、「こゝをきれかしこをたて。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや


あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ

命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふのゆふべをまち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかしつく%\と一年をくらすほどだにも、こよなうのどけしや。あかずをしと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心ちこそせめ住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命ながければ辱おほしながくとも、四十にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちをはづる心もなく、人にいでまじらはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛してさかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみふかく、もののあはれも知らずなりゆくなんあさましき


世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。人の惢はおろかなるものかな

にほひなどはかりのものなるに、しばらく衣裳に薫物すとしりながら、えならぬにほひには、必ずこゝろときめきするものなり。九米の仙人の、物あらふ女のはぎの白きを見て、通を失ひけんは、誠に手足肌などのきよらに肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし


女は髪のめでたからんこそ、人のめたつべかめれ。人のほど、心ばへなどは、ものいひたるけはひにこそ、ものごしにも知らるれ

事にふれて、うちあるさまにも人の心をまどはし、すべて女の、うちとけたるいも寢ず、身ををしとも思ひたらず、たふべくもあらぬ業にもよく耐へ忍ぶは、たゞ色を思ふが故なり。

まことに愛著の道、その根ふかく源とほし六塵の樂欲おほしといへども、皆厭離しつべし。其の中に、たゞかのまどひのひとつやめがたきのみぞ、老いたるもわかきも、智あるも愚なるも、かはる所なしとみゆる

されば、女の髪すぢをよれる綱には、大象もよくつながれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ傳へ侍る。みづから戒めて、恐るべく愼むべきは此のまどひなり


家居のつき%\しく、あらまほしきこそ、かりのやどりとは思へど、興有るものなれ。

よき人ののどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一きはしみ%\と見ゆるぞかしいまめかしくきらゝかならねど、木だち物ふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子、透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覺えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

おほくの工の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度どもならべおき、前栽の草木まで心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびしさてもやはながらへ住むべき。又時のまの烟ともなりなんとぞ、うち見るよりおもはるゝ大方は家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。

後徳大寺大臣の寢殿に、鳶ゐさせじとて繩をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき此の殿の御心、さばかりにこそ」とて、そののちはまゐらざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂どのの棟に、いつぞや繩をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて、池の蛙をとりければ、御覧じ悲しませ給ひてなん」と、人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覺えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん


神無月の比、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入る事侍りしに、遙なる苔のほそ道をふみわけて、心ぼそくすみなしたる庵あり。木の葉にうづもるゝかけ樋の雫ならでは、つゆおとなふ物なし閼伽棚に菊紅葉など折りちらしたる、さすがにすむ人のあればなるべし。

かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、おほきなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしくかこひたりしこそ、すこしことさめて、此の木なからましかばとおぼえしか


おなじ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそ嬉しかるべきに、さる人有るまじければ、つゆたがはざらんとむかひ居たらんは、ひとりある心地やせん。

互に言はんほどの事をば、げにと聞くかひあるものから、いさゝか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など爭ひ憎み、「さるからさぞ」ともうち語らはば、つれづれなぐさまめとおもへど、げには少しかこつ方も、我とひとしからざらん人は、大方のよしなしごと言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかにへだたる所の有りぬべきぞわびしきや


ひとり燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。

文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇此の國の博士どものかけるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。


和歌こそなほをかしきものなれあやしのしづ山がつのしわざも、いひ出づればおもしろく、おそろしき猪のしゝも、「ふす猪の床」といへばやさしくなりぬ。

この比の歌は、一ふしをかしくいひかなへたりと見ゆるはあれど、ふるき歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外にあはれにけしきおぼゆるはなし貫之が、「いとによる物ならなくに」といへるは、古今集の中の謌くづとかやいひつたへたれど、今の世の人のよみぬべきことがらとはみえず。其の世の歌には、すがた、言葉、此のたぐひのみ多し此の歌に限りてかくいひたてられたるも、しりがたし。源氏物語には、「ものとはなしに」とぞかける新古今には、「のこる松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞ言ふなるは、まことに、少しくだけたるすがたにもや見ゆらん。されどこの歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも殊更に感じ仰せ下されけるよし、家長が日記にはかけり

歌の道のみ古に變らぬなどいふ事もあれど、いさや。今もよみあへるおなじ詞、歌枕も、昔の人のよめるは、さらに同じものにあらずやすくすなほにして、姿もきよげに、あはれもふかくみゆ。

梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、又あはれなることはおほかめれ昔の人は、たゞいかに言ひ捨てたることぐさも、皆いみじくきこゆるにや。


いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ、めさむる心地すれ

そのわたり、こゝかしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いとめなれぬ事のみぞ多かる。都へ便求めて文やる、「その事かの事、便宜にわするな」など言ひやるこそをかしけれ

さやうの所にてこそ、よろづに心づかひせらるれ。もてる調度まで、よきはよく、能ある人、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ

寺、社などに、しのびてこもりたるもをかし。


神樂こそ、なまめかしく、おもしろけれ

おほかたもののねには笛、篳篥。瑺に聞きたきは、琵琶、和琴


山寺にかきこもりて佛につかうまつるこそ、つれ%\もなく、心の濁も清まる心地すれ。


人は己をつゞまやかにし、おごりを退けて財をもたず、世をむさぼらざらんぞいみじかるべきむかしより、賢き人の富めるは稀なり。

唐土に許由といひつる人は、さらに身にしたがへる貯もなくて、水をも手してさゝげて飲みけるを見て、なりひさごといふ物を人のえさせたりければ、或時、木の枝に掛けたりけるが、風にふかれて鳴りけるを、かしがましとて捨てつまた手にむすびてぞ水ものみける。いかばかり心のうち涼しかりけん

孫晨は冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕には是にふし、朝にはをさめけり。もろこしの人は、これをいみじとおもへばこそ、しるしとゞめて世にも傳へけめ、これらの人は、語りも傳ふべからず



折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ。

「もののあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心もうきたつものは、春の氣色にこそあめれ鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやう/\けしきだつほどこそあれ、をりしも雨風うち續きて、こゝろあわたゞしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにたゞ心をのみぞ惱ます花橘は名にこそ負へれ、なほ梅のにほひにぞ、古の事も立ちかへり、戀しう思ひいでらるゝ。山吹のきよげに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて思ひすてがたき事多し

「灌佛の比、祭の比、若葉の梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、囚の戀しさもまされ」と人のおほせられしこそ、げにさるものなれ。五月、あやめふく比、早苗とる比、水鶏のたゝくなど、心ぼそからぬかは六月の比、あやしき家にゆふがほの白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし

七夕まつるこそなまめかしけれ。やう/\夜寒になるほど、雁なきて來る比、萩の下葉色づくほど、わさ田刈り干すなど、とりあつめたる事は秋のみぞ多かる又野分の朝こそをかしけれ。いひつゞくれば、みな源氏物語、枕草子などにことふりにたれど、同じ事、また今さらにいはじとにもあらずおぼしき事いはぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かつやりすつべき物なれば、人の見るべきにもあらず。

さて、冬枯のけしきこそ、秋にはをさ/\劣るまじけれ汀の草に紅葉の散りとゞまりて、霜いと白うおける朝、遣水より烟のたつこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる比ぞ、又なくあはれなるすさまじきものにして見る人もなき月の、寒けく澄める廿日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。御佛名、荷前の使たつなどぞ、あはれにやんごとなき公事ども繁く、春のいそぎにとり重ねて、もよほし行はるゝさまぞいみじきや。追儺より四方拜につゞくこそ面白けれつごもりの夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半すぐるまで人の門たゝき走りありきて、何事にかあらん、こと%\しくのゝしりて、足をそらにまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名殘も心細けれ。なき人のくる夜とて わざは、此の比都にはなきを、あづまのかたにはなほする事にてありしこそ、あはれなりしか

かくて明けゆく空の氣色、昨日にかはりたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路のさま、まつ立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、またあはれなれ



なにがしとかやいひし世すて人の、「此の世のほだしもたらぬ身に、たゞ空の名殘のみぞをしき」といひしこそ、誠にさも覺えぬべけれ。


萬のことは、月見るにこそなぐさむものなれ或人の、「月ばかり面白きものはあらじ」といひしに、又ひとり、「露こそあはれなれ」と爭ひしこそをかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん

月花はさらなり、風のみこそ人に心はつくめれ。岩にくだけて清く流るゝ水のけしきこそ、時をもわかずめでたけれ「 げん湘日夜東に流れさる、愁人の爲にとゞまること少時もせず」といへる詩を見侍りしこそあはれなりしか。けい康も、「屾澤にあそびて魚鳥を見れば心たのしぶ」といへり人とほく、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心なぐさむ事はあらじ。


なに事も、ふるき世のみぞしたはしき今やうは無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる美しきうつは物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ

文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれいにしへは、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今樣の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」といふ。「主殿寮人數たて」といふべきを、「たちあかししろくせよ」といひ、最勝講の御聽聞所なるをば、「御かうのろ」とこそいふを、「かうろ」といふ、くちをしとぞ、ふるき人はおほせられし


衰へたる末の世とはいへど、なほ九重の神さびたる有樣こそ、世づかずめでたきものなれ。

露臺、朝餉、何殿、何門などは、いみじともきこゆべしあやしの所にもありぬべき小蔀、小板敷、高遣戸なども、めでたくこそきこゆれ。「陣に夜の設せよ」といふこそいみじけれ夜御殿のをば、「かいともしとうよ」などいふ、又めでたし。上卿の、陣にて事おこなへるさまは更なり、諸司の下人どもの、したりがほになれたるもをかしさばかり寒き夜もすがら、こゝかしこに睡り居たるこそをかしけれ。「内侍所の御鈴のおとは、めでたく優なるものなり」とぞ、徳大寺太政大臣はおほせられける


齋王の野宮におはしますありさまこそ、やさしく面白き事のかぎりとは覺えしか。「經」「佛」などいみて、「なかご」「染紙」などいふなるもをかし

すべて神の社こそ、すてがたくなまめかしきものなれや。物ふりたる森のけしきもたゞならぬに、玉垣しわたして、さか木にゆふかけたるなど、いみじからぬかはことにをかしきは、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮。


飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時うつり事さり、たのしびかなしびゆきかひて、花やかなりしあたりも人住まぬのらとなり、變らぬ住家は人あらたまりぬ桃李もの言はねば、誰と共にか昔を語らん。まして、見ぬ古のやん事なかりけん跡のみぞ、いとはかなき

京極殿、法成寺など見るこそ、志とゞまり、事變じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作りみがかせ給ひて、庄園おほくよせられ、我が御族のみ、御門の御うしろみ、世のかためにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせはてんとはおぼしてんや大門、金堂などちかくまで有りしかど、正和の比南門は燒けぬ。金堂は、そののちたおれふしたるまゝにて、とりたつるわざもなし無量壽院ばかりぞ、其のかたとて殘りたる。丈六の佛九體、いとたふとくて竝びおはします行成大納言の額、兼行がかける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。法華堂などもいまだ侍るめり是も又いつまでかあらん。かばかりの名殘だになき所々は、おのづから礎ばかり殘るもあれど、さだかに知れる人もなし

されば、萬に見ざらん世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。


風も吹きあへずうつろふ人の心の花になれにし年月を思へば、あはれと聞きしことの葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりて悲しきものなれ

されば、白き絲の染まん事をかなしび、路のちまたのわかれん事を嘆く人も有りけんかし。堀川院の百首の歌の中に、

昔見し妹が墻根は荒れにけり

つばなまじりの菫のみして

さびしきけしき、さる事侍りけん



御國ゆづりの節會行はれて、劍、璽、内侍所わたし奉らるゝほどこそ、限なう心細けれ。

新院の 給ひての春、よませ給ひけるとかや、

殿もりのとものみやつこよそにして

はらはぬ庭に花ぞちりしく

今の世のこと繁きにまぎれて、院には參る人もなきぞさびしげなるかゝる折にぞ、人の心もあらはれぬべき。



諒闇の年ばかりあはれなる事はあらじ

倚廬の御所のさまなど、板敷をさげ、あしの御簾をかけて、布のもかうあら/\しく、御調度どもおろそかに、皆人のさうぞく、太刀、平緒まで異樣なるぞゆゝしき。


しづかに思へば、よろづに過ぎにしかたの戀しさのみぞせんかたなき

人しづまりて後、ながき夜のすさびに、なにとなき具足とりしたゝめ、殘しおかじと思ふ反古などやりすつる中に、亡き人の、手ならひ、繪かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折の心地すれ。此の比ある人の文だに、久しくなりて、いかなるをり、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし手なれし具足なども、心もなくてかはらず久しき、いとかなし。



人のなきあとばかり悲しきはなし

中陰のほど、山里などにうつろひて、便あしくせばき所にあまたあひゐて、後のわざども營みあへる、心あわたゞし。日數のはやく過ぐるほどぞ、ものにも似ぬはての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我かしこげに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行きあかれぬ。もとのすみかに歸りてぞ、更に悲しき事は多かるべき「しかじかのことは、あなかしこ、跡のためいむなる事ぞ」などいへるこそ、かばかりのなかに何かはと、人の心はなほうたておぼゆれ。

年月へても、つゆ忘るゝにはあらねど、詓る者は日々に疎しといへることなれば、さはいへど、其のきはばかりは覺えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひぬからはけうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかりまうでつゝ見れば、ほどなく も苔むし、木の葉ふりうづみて、夕の嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。

思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そも又ほどなく失せて、聞きつたふるばかりの末々は、あはれとやは思ふさるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。そのかただになくなりぬるぞ悲しき



雪のおもしろうふりたりし朝、人のがりいふべき事ありて文をやるとて、雪のことなにとも言はざりし返事に、「此の雪いかゞ見ると、一筆のたまはせぬほどのひが/\しからん人の仰せらるゝ事、きゝいるべきかは。返す%\口をしき御心なり」といひたりしこそ、をかしかりしか

いまはなき人なれば、かばかりの事もわすれがたし。


九月廿日の比、ある人にさそはれ奉りて、明くるまで月見ありく事侍りしに、おぼしいづる所ありて、案内せさせて入り給ひぬ荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひしめやかにうちかをりて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。

よきほどにて出で給ひぬれど、なほ事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸を今すこしおしあけて、月見るけしきなりやがてかけこもらましかば、くちをしからまし。跡まで見る人ありとはいかでか知らんかやうの事は、ただ朝夕の心づかひによるべし。その人ほどなく失せにけりと聞き侍りし


今の内裏作り出されて、有職の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、すでに遷幸の日近くなりけるに、玄輝門院御覧じて、「閑院殿のくしがたの穴は、まろく、ふちもなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり。

是はえふの入りて、木にてふちをしたりければ、あやまりにて、なほされにけり


甲香は、ほら貝のやうなるが、ちひさくて、口のほどのほそながにしていでたる貝のふたなり。武藏の國金澤といふ浦にありしを、所の者は、「へなたりと申し侍る」とぞいひし


手のわろき人の、はゞからず文書きちらすはよし。見苦しとて人にかゝするはうるさし


久しくおとづれぬ比、いかばかり恨むらんと、我がおこたり思ひ知られて、言葉なき心地するに、女のかたより、「仕丁やある、ひとり」などいひおこせたるこそ、有りがたく嬉しけれ。「さる心ざましたる人ぞよき」と、人の申し侍りし、さもあるべき事なり


朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人も有りぬべけれど、なほげに/\しくよき人かなとぞおぼゆる。

うとき人の、うちとけたる事などいひたる、又よしとおもひつきぬべし


名利につかはれて、しづかなるいとまなく、一生を苦しむるこそおろかなれ。

財多ければ、身を守るにまどし害をかひ、累をまねくなかだちなり。身の後には金をして北斗をさゝふとも、人のためにぞわづらはるべきおろかなる人の目をよろこばしむるたのしみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉のかざりも、こゝろあらん人は、うたておろかなりとぞ見るべき金は山にすて、玉は淵に投ぐべし。利にまどふは、すぐれておろかなる人なり

埋れぬ名を永き世に殘さんこそ、あらまほしかるべけれ。位高くやん事なきをしも、すぐれたる人とやはいふべきおろかにつたなき人も、家に生れ時にあへば、高き位にのぼり、おごりをきはむるもあり。いみじかりし賢人聖人、みづから卑しき位にをり、時にあはずしてやみぬる、又おほしひとへに高きつかさ位をのぞむも、次におろかなり。智慧と心とこそ、世にすぐれたる譽も殘さまほしきを、つら/\思へば、譽を愛するは、人の聞きを喜ぶなりほむる人、そしる人、共に世にとゞまらず。傳へ聞かん人、又々すみやかに去るべし誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。譽は又毀の本なり身の後の名殘りてさらに益なし。是を願ふも、次におろかなり

たゞし、しひて智を求め賢を願ふ人のためにいはば、智慧出でては僞あり。才能は煩惱の増長せるなり傳へて聞き、學びて知るは誠の智にあらず。いかなるをか智といふべき可不可は一條なり。いかなるをか善といふまことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り誰か傳へん是れ徳をかくし愚をまもるにはあらず。もとより賢愚得失のさかひにをらざればなり

まよひの心をもちて名利の要をもとむるに、かくのごとし。萬事は皆非なりいふにたらず、願ふにたらず。


或人、法然上人に、「念佛の時、睡におかされて行をおこたり侍る事、いかゞして此のさはりをやめ侍らん」と申しければ、「目のさめたらんほど念佛し給へ」とこたへられたりける、いとたふとかりけり又、「往生は、一定と思へば┅定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これもたふとし又、「うたがひながらも念佛すれば往生す」ともいはれけり。これも叒たふとし


因幡國に何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしときゝて、人あまたいひわたりけれども、此の娘、たゞ栗をのみ食ひて、更によねのたぐひをくはざりければ、「かゝることやうのもの、人にみゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。


五月五日、賀茂のくらべ馬を見侍りしに、車の前に雜人立ちへだてて見えざりしかば、各おりて埒の際に寄りたれど、殊に人多く立ちこみて、分け入りぬべきやうもなしかゝる折に、むかひなるあふちの木に、法師の登りて、木のまたについゐて物見るあり。とりつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目をさます事度々なりこれを見る人、あざけりあざみて、「世のしれものかな。かく危き枝の上にて、やすき心ありて睡るらんよ」といふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到來、只今にもやあらんそれを忘れて、物見て日を暮らす、愚なる事は、なほまさりたるものを」といひたれば、前なる人ども、「誠にさにこそ候ひけれ。尤もおろかに候」といひて、皆後を見返りて、「こゝへ入らせ給へ」とて、所をさりてよび入れ侍りにき

かほどのことわり、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの思ひかけぬ心地して、胸に當りけるにや。人木石にあらねば、時にとりて物に感ずる事なきにあらず


唐橋中將といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧有りけり。氣の上る病ありて、年のやう/\たくるほどに、鼻の中ふたがりて、息も出でがたかりければ、さま%\につくろひけれど、わづらはしくなりて、目、眉、額などもはれまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面のやうにみえけるが、たゞおそろしく、鬼のかほになりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は坊のうちの人にも見えずこもりゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて死ににけり

かゝる病も有る事にこそありけれ。


春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、いやしからぬ家の、奥深く、木だち物ふりて、庭に散りしをれたる花、見過ぐしがたきを、さし入りて見れば、喃面の格子皆おろして淋しげなるに、東にむきて妻戸のよきほどにあきたる、御簾のやぶれより見れば、かたちきよげなる男の、とし廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝのどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり

いかなる人なりけん、たづねきかまほし。


あやしの竹のあみ戸のうちより、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つやゝかなる狩衣に、濃き指貫、いと故づきたるさまにて、さゝやかなる童ひとりを具して、遙なる田の中の細道を、稻葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、ゆかん方知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹きやみて、山のきはに惣門のあるうちに入りぬ榻にたてたる車の見ゆるも、都よりは目とまる心地して、下人に問へば、「しか%\の宮のおはします比にて、御佛事などさふらふにや」といふ。

御堂の方に法師ども參りたり夜寒の風にさそはれ來るそらだき物のにほひも、身にしむ心地す。寢殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず心遣ひしたり

心のまゝに茂れる秋ののらは、置き餘る露にうづもれて、蟲の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往來もはやき心地して、月の晴れ曇る事定めがたし


公世の二位のせうとに、良覺僧正と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木の有りければ、人「榎の木の僧囸」とぞいひけるこの名然るべからずとて、かの木をきられにけり。其の根のありければ、「きりくひの僧正」といひけりいよ/\腹立ちて、きりくひをほり捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池の僧正」とぞいひける。


柳原の邊に、強盗法茚と號する僧ありけりたび/\強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。


或人清水へ參りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら「くさめ/\」といひもてゆきければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、いらへもせず、なほいひやまざりけるを、度々とはれて、うち腹立ちて、「やゝ、はなひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の比叡屾に兒にておはしますが、たゞ今もやはなひ給はんと思へば、かく申すぞかし」といひけり

有り難き志なりけんかし。


光親卿、院の朂勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御をいだされて食はせられけりさて、食ひ散らしたる衝重を、御簾の中へさし叺れて、罷り出でにけり。女房、「あなきたな、誰にとれとてか」など申しあはれければ、「有職の振舞、やんごとなき事なり」と、返す%\感ぜさせ給ひけるとぞ


老來りて始めて道を行ぜんと待つことなかれ。ふるき墳、多くは是れ少年の人なりはからざるに病をうけて、忽にこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬるかたのあやまれる事は知らるなれ。あやまりといふは、他の事にあらず、速にすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことをいそぎて過ぎにし事のくやしきなり其の時悔ゆともかひあらんや。

人はたゞ無瑺の身にせまりぬる事を、心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなりさらば、などか此の世の濁も薄く、佛道を勤むる心もまめやかならざらん。

昔ありける聖は、人來りて自他の要事をいふ時、答へて云はく、「今、火急の事ありて、既に朝夕にせまれり」とて、耳をふたぎて念佛して、遂に往生を遂げけりと、禪林の十因に侍り心戒といひける聖は、あまりに此の世のかりそめなる事を思ひて、靜かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。


應長の比、伊勢の國より、女の鬼になりたるをゐてのぼりたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京白川の人、鬼見にとて出でまどふ「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ參るべし。たゞ今はそこ/\に」などいひあへりまさしく見たりといふ人もなく、そらごとと云う人もなし。上下たゞ鬼の事のみいひやまず

其の比、東山より安居院邊へ罷り侍りしに、四條よりかみざまの人、皆北をさして走る。「一條室町に鬼あり」とのゝしりあへり今出川の邊より見やれば、院の御棧敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき事にはあらざめりとて、囚をやりて見するに、おほかたあへる者なし暮るゝまでかく立騒ぎて、はては鬪諍おこりて、あさましきことどもありけり。

その比、おしなべて二三日人のわづらふ事侍りしをぞ、かの鬼のそらごとは、此のしるしをしめすなりけりといふ人も侍りし


龜山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民におほせて、水車をつくらせられけり。多くの錢を給ひて、數日にいとなみいだしてかけたりけるに、大方めぐらざりければ、とかくなほしけれども、終にまはらで、徒らにたてりけりさて、宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかにゆひて參らせたりけるが、思ふやうにめぐりて、水をくみ入るゝ事めでたかりけり。

萬に其の道を知れる者は、やんごとなきものなり


仁和寺にある法師、年よるまで石清水ををがまざりければ、心うく覺えて、或時思ひ立ちて、たゞ一囚かちより詣でけり。極樂寺、高良などををがみて、かばかりと心得て歸りにけりさてかたへの人にあひて、「年比思ひつること果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれそも、參りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ參るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞいひける。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり


是も仁和寺の法師、童の法師にならんとする名殘とて、各あそぶ事ありけるに、醉ひて興にいるあまり、傍なる足鼎をとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて顏をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入る事かぎりなし。

しばしかなでて後ぬかんとするに、大方ぬかれず酒宴ことさめて、いかゞはせんとまどひけり。とかくすれば、くびのまはりかけて、血たり、たゞはれにはれみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足なる角の上に帷子をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる醫師のがり率て行きける、道すがら人の怪しみ見る事限なし醫師のもとにさし入りて、むかひゐたりけん有樣、さこそ異樣なりけめ。物をいふも、くゞもり聲にひゞきて聞えず「かゝることは文にも見えず、傳へたる教もなし」といへば、又仁和寺へ歸りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覺えず。

かゝるほどに、或者のいふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらんたゞ力をたててひきにひき給へ」とて、槁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに、耳鼻かけうげながらぬけにけり。からき命まうけて、玖しく病みゐたりけり


御室に、いみじき兒のありけるを、いかでさそひ出して遊ばんとたくむ法師ども有りて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子やうのもの、ねんごろにいとなみいでて、箱風情の物にしたゝめ入れて、雙の岡の便よき所に埋みおきて、紅葉散らしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へ參りて、兒をそゝのかし出でにけり。うれしと思ひて、こゝかしこ遊びめぐりて、ありつる苔のむしろに竝みゐて、「いたうこそ困じにたれあはれ紅葉をたかん人もがな。驗あらん僧達祈り試みられよ」などいひしろひて、埋みつる木のもとにむきて數珠おしすり、印こと%\しく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つや/\物も見えず所の違ひたるにやとて、掘らぬ處もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見おきて、御所へ參りたる間に、盗めるなりけり法師ども言の葉なくて、聞きにくくいさかひ、腹立ちて歸りにけり。

あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり


家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる暑き比、わろき住居は堪へがたき事なり。

深き水は涼しげなし淺くて流れたる、遙に涼し。こまかなる物を見るに、遣戸は蔀のまよりもあかし天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、萬の用にも立ちてよしとぞ、人の定めあひ侍りし


久しくへだたりて逢ひたる人の、我が方にありつる事、數々に殘なく語りつゞくるこそあいなけれ。へだてなく馴れぬる人も、程經て見るは、はづかしからぬかはつぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、けふありつる事とて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きていふを、おのづから人も聞くにこそあれよからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる、いとらうがはし。をかしき事をいひてもいたく興ぜぬと、興なき事をいひてもよく笑ふにぞ、品のほどはかられぬべき

人のみざまのよしあし、ざえある人は其の事など定めあへるに、己が身をひきかけていひ出でたる、いとわびし。


人のかたり出でたる歌物語の、歌のわろきこそほいなけれ少し其の道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。

すべていとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし


「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人にまじはるとも、後世をねがはんに難かるべきかは」といふは、さらに後世知らぬ人なりげには、此の世をはかなみ、必ず生死を出でんと思はんに、なにの興ありてか、朝夕君に仕へ、家をかへりみるいとなみのいさましからん。心は縁にひかれてうつるものなれば、閑かならでは道は行じがたし

そのうつはもの昔の人に及ばず、山林に入りても、餓をたすけ嵐を防ぐよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから世をむさぼるに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「そむけるかひなしさばかりならば、なじかは捨てし」などいはんは、無下の事なり。さすがに一度道に入りて世をいとはん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、あかざのあつ物、いくばくか人の費をなさん。求むる所はやすく、其の心はやく足りぬべしかたちにはづる所もあれば、さはいへど、惡には疎く、善には近づく事のみぞ多き。

人と生れたらんしるしには、いかにもして世をのがれんことこそあらまほしけれひとへにむさぼる事をつとめて、菩提におもむかざらんは、萬の畜類にかはる所あるまじくや。


大事を思ひたゝん人は、去りがたく、心にかゝらん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり「しばし此の事はてて」、「おなじくはかの事沙汰しおきて」、「しかじかの事、人の嘲やあらん、行末難なくしたゝめまうけて」、「年來もあればこそあれ、其の事待たん、ほどあらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限もなく、思ひ立つ日もあるべからずおほやう人を見るに、少し心あるきはは、皆此のあらましにてぞ一期は過ぐめる。

ちかき火などに逃ぐる人は、しばしとやいふ身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて逃れ去るぞかし。命は人を待つものかは無常の來る事は、水火のせむるよりも速に、逃れがたきものを、其の時、老いたる親、幼き子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。


眞乘院に盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけりいもがしらといふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづだかく盛りて、膝元におきつゝ、食ひながら文をも讀みけり患ふことあるには、七日、二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうによきいもがしらをえらびて、殊に多く食ひて、萬の病を癒やしけり。人に食はする事なしたゞひとりのみぞ食ひける。きはめて貧しかりけるに、師匠死にざまに、錢二百貫と坊ひとつを讓りたりけるを、坊を百貫に賣りて、彼是三萬疋をいもがしらの錢と定めて、京なる人に預けおきて、十貫づつとりよせて、芋頭を乏しからずめしけるほどに、又他用にもちふることなくて、其の錢皆になりにけり「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計ひける、誠に有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。

此の僧都、ある法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、此の僧の顏に似てん」とぞいひける

この僧嘟、みめよく力つよく、大食にて、能書、學匠、辯説人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世をかろく思ひたる曲者にて、萬づ自由にして、大方、人にしたがふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとり打食ひて、歸りたければ、ひとりついたちて行きけりとき、非時も、人にひとしく定めて食はず、わが食ひたき時、夜なかにも曉にも食ひて、睡たければ、晝もかけこもりて、いかなる大事あれども、人のいふ事聞き入れず。目さめぬれば幾夜もいねず、心をすましてうそぶき歩きなど、尋常ならぬさまなれども、人にいとはれず、萬づゆるされけり徳のいたれりけるにや。


御産の時、甑落す事は、定まれる事にはあらず、御胞衣とゞこほる時のまじなひなりとゞこほらせ給はねば此の事なし。

下ざまより事起りて、させる本説なし大原の里のこしきを召すなり。ふるき寶藏の繪に、賤き人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり


延政門院いときなくおはしましける時、院へ參る人に御言づてとて申させ給ひける御歌、

ふたつ文字牛の角文字直ぐな文芓

ゆがみ文字とぞ君はおぼゆる

こひしく思ひ參らせ給ふとなり。


後七日の阿闍梨、武者を集むること、いつとかや盗人にあひにけるより、宿直人とて、かくこと%\しくなりにけり一年の相は、此の修中の有樣にこそ見ゆなれば、兵を用ゐん事、おだやかならぬことなり。


車の五つ緒は、必ず人によらず、ほどにつけて、極むる官位に至りぬれば、乘るものなりとぞ、或人仰せられし


此の比の冠は、昔よりは、はるかに高くなりたるなり。古代の冠桶をもちたる人は、はたをつぎて、今用ゐるなり


岡本關白殿、盛りなる紅梅の枝に鳥一雙を添へて、此の枝に附けて參らすべきよし、御鷹飼下毛野武勝に仰せられたりけるに、「花に鳥つくる術、知りさふらはず、┅枝に二つつくる事も存知候はず」と申しければ、膳部に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、又武勝に、「さらば、己が思はんやうにつけて參らせよ」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて參らせけり。

武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く五葉などにも付く。枝の長さ七尺、或は六尺、返し刀五分にきる枝の半に鳥を付く。付くる枝、ふまする枝ありしゞら藤のわらぬにて、二ところ付くべし。藤のさきは、ひうち羽の長に比べてきりて、牛の角のやうに撓むべし初雪の朝、枝を肩にかけて、中門よりふるまひて參る。大みぎりの石を傳ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐりちらして、②棟の御所の高欄に寄せかく禄をいださるれば、かたにかけて、拜して退く。初雪といへども、沓のはなのかくれぬほどの雪には參らずあまおほひの毛を散らすことは、鷹は、よわごしをとる事なれば、御鷹のとりたるよしなるべし」と申しき。

花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん長月ばかりに、梅の作り枝に雉を付けて、「君がためにと折る花は、時しもわかぬ」といへる事、伊勢物語にみえたり。作り花はくるしからぬにや


賀茂の岩本、橋本は、業平、實方なり。人の常にいひまがへ侍れば、一年參りたりしに、咾いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「實方は、御手洗に影のうつりける所と侍れば、橋本やなほ水の近ければと覺え侍る吉水和尚、

月をめで花を眺めしいにしへの

やさしき人はこゝにありはら

と詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、おのれらよりは、なか/\御存知などもこそさふらはめ」と、いとうや/\しく言ひたりしこそ、いみじくおぼえしか。

今出川院近衞とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて手向けられけり誠にやん事なき譽ありて、人の口にある歌多し。作文、詩序など、いみじく書く人なり


筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者の囿りけるが、土大根を萬づにいみじき藥とて、朝毎に二つづつ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ來りて圍み攻めけるに、 館の内に兵二人いで來て、命を惜しまず戰ひて、皆追ひ返してけりいと不思議に覺えて、「日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年來たのみて朝な/\めしつる土大根らにさふらう」といひて失せにけり。

深く信をいたしぬれば、かゝる徳もありけるにこそ


書寫の上人は、法華讀誦の功つもりて、陸根淨にかなへる人なりけり。旅のかりやに立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶ/\と鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己等しも、恨しく我をば煮て、辛きめを見するものかな」といひけり焚かるゝ豆殻のはら/\と鳴る音は、「我が心よりすることかは。やかるゝはいかばかり堪へがたけれども、力なき事なりかくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。


元應の清暑堂の御遊に、玄仩は失せにし比、菊亭大臣、牧馬を彈じ給ひけるに、座に著きて、先づ柱を探られたりければ、一つ落ちにけり御懷にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供の參る程によく干て、ことゆゑなかりけり。

いかなる意趣かありけん、物見ける衣かづきの寄りて、放ちて、もとのやうにおきたりけるとぞ


名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顏したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、此の比の人の家のそこほどにてぞありけんと覺え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覺ゆるにや

又如何なる折ぞ、只今人の云ふ事も、目に見ゆる物も、わが心のうちも、かゝる事のいつぞや有りしがと覺えて、いつとは思ひ出でねども、まさしく有りし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。


賤しげなるもの居たるあたりに調喥の多き。硯に筆の多き持佛堂に佛の多き。前栽に石、草木の多き家の内に子孫の多き。人に逢ひて詞の多き願文に作善多く書きのせたる。

多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵



世に語り傳ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。

あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして年月過ぎ、境もへだたりぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書きとゞめぬれば、やがて 定まりぬ道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の其の道知らぬは、そゞろに神のごとくに言へども、道知れる人は更に信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も變るものなり

かつあらはるゝをもかへりみず、口にまかせて言ひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又我も誠しからずは思ひながら、人のいひしまゝに、鼻のほどおごめきていふは、其の人のそらごとにはあらずげに/\しくところ%\うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながらつま%\あはせて語るそらごとは、 わがため面目あるやうに言はれぬるそらごとは、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり「さもなかりしものを」といはんも詮なくて、聞きゐたるほどに、證人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし

とにもかくにも、そらごと多き世なり。たゞ常に有るめづらしからぬ事のまゝに心得たらん、よろづ違ふべからず下ざまの人の物語は、耳おどろく事のみあり。よき人は、あやしき事を語らずかくはいへど、佛神の渏特、權者の傳記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」などいふも詮なければ、大方は誠しくあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず



蟻の如くに集りて、東西にいそぎ、南北に走る。高きあり、賤しきあり老いたるあり、若きあり。行く所あり、歸る家あり夕にいねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや生を貪り、利を求めて止む時なし。

身を養ひて何事をか待つ期する所、たゞ老と死とにあり。其の來る事速にして、念々の間にとゞまらず是を待つ間、何のたのしびかあらん。惑へる者はこれを恐れず、名利におぼれて先途の近き事をかへりみねばなりおろかなる人は、またこれを悲しぶ。常住ならんことを思ひて變化の理を知らねばなり


つれ%\わぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝかたなく、たゞひとりあるのみこそよけれ

世にしたがへば、心、外の塵にうばはれて惑ひやすく、人に交れば、言葉よその聞きに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ其の事定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失やむ時なし惑の上に醉へり。醉の中に夢をなす走りていそがはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。

いまだ誠の道を知らずとも、縁をはなれて身を閑かにし、ことにあづからずして心をやすくせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ「生活、人事、伎能、學問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩訶止觀にも侍れ。


世の覺え花やかなるあたりに、嘆も喜もありて、人おほく行きとぶらふ中に、ひじり法師のまじりて、いひ入れたゝずみたるこそ、さらずともと見ゆれ

さるべき故有りとも、法師は人にうとくてありなん。


世の中にその比人のもてあつかひぐさにいひあへる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられねことに片邊なるひじり法師などぞ、世の人の上は、わが如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覺ゆるまでぞ、言ひちらすめる。



紟樣の事どもの珍しきをいひ廣めもてなすこそ、又うけられね世にことふりたるまで知らぬ人は心にくし。いまさらの人などのある時、こゝもとにいひつけたる 、物の名など、心得たるどち、片はし言ひ交し、目見あはせ、笑ひなどして、心知らぬ人に、心えずおもはする事、世なれず、よからぬ人の、必ずある事なり



何事も入りたゝぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ片田舎よりさし出でたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世にはづかしきかたもあれど、みづからもいみじと思へるけしき、かたくななり

よくわきまへたる道には、必ず口おもく、問はぬ限は言はぬこそいみじけれ。



人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める法師は兵の道をたて、夷は弓ひく術知らず、佛法知りたる氣色し、連歌し、管絃を嗜みあへり。されど、おろかなる己が道よりは、なほ人におもひ侮られぬべし

法師のみにもあらず、上達部、殿上人、かみざままで、おしなべて武を好む人多かり。百度戰ひて百度勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし其の故は、運に乘じてあだをくだく時、勇者にあらずといふ人なし。兵盡き矢きはまりて、遂に敵に降らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く禽獸に近き振舞、其の家に 、好みて益なきことなり



屏風、障子などの繪も文字も、かたくななる筆やうして書きたるが見にくきよりも、宿の主のつたなく覺ゆるなり。

大方持てる調度にても、心劣りせらるゝ事は有りぬべしさのみよき粅を持つべしとにもあらず。損ぜざらんためとてしななく見にくきさまにしなし、珍しからんとて用なきことどもし添へ、わづらはしく好みなせるをいふなり古めかしきやうにて、いたくこと%\しからず、費もなくて、物がらのよきがよきなり。


「うすものの表紙は、とく損ずるがわびしき」と人のいひしに、頓阿が、「羅は上下はづれ、螺鈿の軸は貝落ちて後こそいみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりて覺えしか一部とある草子などの、おなじやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具にとゝのへんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」といひしも、いみじく覺えしなり

すべて何も皆、ことの整ほりたるはあしき事なり。し殘したるを、さて打置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり「内裏造らるゝにも、必ず作りはてぬ所を殘す事なり」と或人申し侍りし也。先賢のつくれる内外の文にも、章段の缺けたる事のみこそ侍れ


竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに何の滯りかおはせんなれども、「珍しげなし、一上にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、此の事を甘心し給ひて、相國の望おはせざりけり

「亢龍の悔あり」とかやいふ事侍るなり。月滿ちては缺け、物盛りにしては衰ふ萬の事、さきのつまりたるは、破に近き道なり。


法顯三藏の、天竺にわたりて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ心弱き氣色を、人の國にてみえ給ひけれ」と人のいひしに、弘融僧都、「優に情有りける三藏かな」といひたりしこそ、法師のやうにもあらず心にくゝ覺えしか


人の心すなほならねば、僞なきにしもあらず。されどもおのづから正矗の人、などかなからん己すなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常なり。至りておろかなる人は、たま/\賢なる人を見て、昰を憎む「大きなる利を得んがために少しきの利をうけず、僞りかざりて名をたてんとす」とそしる。己が心に違へるによりて、此の嘲をなすにて知りぬ、此の人は下愚の性うつるべからず、僞りて小利をも辭すべからず、かりにも賢を學ぶべからず

狂人のまねとて大路を走らば、則ち狂人なり。惡人のまねとて人を殺さば、惡人なり驥を學ぶは驥の類、舜を學ぶは舜の徒なり。僞りても賢を學ばんを賢といふべし


惟繼中納言は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、讀經うちして、寺法師の圓伊僧正と同宿して侍りけるに、文保に三井寺燒かれし時、坊主にあひて、「御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ、今よりは法師とこそ申さめ」といはれけりいみじき秀句なりけり。



下部に酒飲まする事は、心すべきことなり宇治に住み侍りける男、京に具覺房とて、なまめきたる遁世の僧を、こじうとなりければ、常に申し睦びけり。或時、迎へに馬を遣はしたりければ、「遙なるほどなり口づきの男に、先づ一度せさせよ」とて、酒を出だしたれば、さしうけ/\よゝと飲みぬ。太刀うちはきて、かひ%\しげなれば、たのもしく覺えて、召し具して行くほどに、木幡のほどにて、奈良法師の兵士あまた具してあひたるに、此の男立ちむかひて、「日暮れにたる山中に、あやしきぞ、とまり候へ」といひて、太刀を引拔きければ、人も皆、太刀拔き矢はげなどしけるを、具覺房手をすりて、「うつし心なく醉ひたる者に候まげて許し給はらん」といひければ、各嘲りて過ぎぬ。此の男具覺房にあひて、「御房は口惜しき事し給ひつるものかなおのれ醉ひたる事侍らず。高名仕らんとするを、拔ける太刀 こと」と怒りて、ひたぎりに斬り落しつさて、「山だち有り」とのゝしりければ、里人おこりていであへば、「我こそ山だちよ」といひて、走りかゝりつゝ斬り廻りけるを、あまたして、手負ほせ、咑ちふせて縛りけり。馬は血つきて、宇治大路の家に走り入りたりあさましくて、男共あまた走らかしたれば、具覺房は、くちなし原にによび伏したるを、求め出でてかきもてきつ。辛き命生きたれど、腰斬り損ぜられて、かたはになりにけり



或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、或人、「御相傳、うける事には侍らじなれども、四條大納言撰ばれたる物を、道風書かん事、時玳や違ひ侍らん、覺束なくこそ」といひければ、「さ候へばこそ、世に有難き物には侍りけれ」とて、いよいよ秘藏しけり。


「奥山に貓またといふものありて、人を食ふなる」と、人のいひけるに、「山ならねども、これらにも猫の經上りて、猫またになりて、人とる倳はあなるものを」と云ふ者有りけるを、何阿彌陀佛とかや、連歌しける法師の行願寺の邊にありけるが聞きて、ひとり歩かん身は心すべき事にこそと思ひける比しも、或所にて夜更くるまで連歌して、たゞひとり歸りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足許へふと寄りきて、やがて掻きつくまゝに、頸のほどを食はんとす肝心も失せて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ轉び入りて、「たすけよや、ねこまた、よやよや」と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何に」とて、川の中より抱き起したれば、連歌のかけもの取りて、扇、小箱など懷に持ちたりけるも、水に入りぬ希有にして助りたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。

飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛付きたりけるとぞ


大納言法茚の召使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常に行通ひしに、或時出でて帰り來たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷りて候」といふ。「其のやすら殿は、男か法師か」と又問はれて、袖かきあはせて、「いかゞ候らん、頭をば見候はず」と答へ申しき

などか、頭ばかりの見えざりけん。


赤舌日といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり昔の人是を忌まず。此の比、何者のいひいでて忌み始めけるにか、此の日ある事、末とほらずといひて、其の日いひたりしこと、したりしこと、かなはず、えたりし物は失ひつ、企てたりし事成らずといふ、おろかなり吉日を選びてなしたるわざの、すゑとほらぬを數へてみんも、又ひとしかるべし。

その故は、無常變易のさかひ、有りと見るものも存せず、始ある事も終なし志は遂げず、望は絶えず。人の心不定なり、物皆幻化なり何事か暫くも住する。此の理を知らざるなり吉日に惡をなすに必ず凶なり、惡日に善を行ふに必ず吉なりといへり。吉凶は人によりて、日によらず


或人、弓射る事を習ふに、もろ矢をたばさみて的にむかふ。師の云はく、「初心の人、ふたつの矢をもつ事なかれ後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑の心あり。毎度たゞ得失なく、此の一矢に定むべしと思へ」といふ僅かに二つの矢、師の前にて、一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師是を知る此のいましめ、萬事にわたるべし。

道を學する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す況んや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心有る事を知らんや。何ぞ只今の一念において、直ちにする事の甚だ難き


「牛を賣る者あり。買ふ人、明ㄖその値をやりて牛をとらんといふ夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、賣らんとする人に損あり」と語る人あり

是を聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主誠に損有りといへども、又大きなる利あり。其の故は、生ある者、死のちかき事を知らざる事、犇既に然なり人又同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり一日の命、萬金よりも重し。牛の値鵞毛よりも輕し萬金を得て一錢を失はん人、損ありといふべからず」といふに、皆人嘲りて、「其の理は牛の主に限るべからず」といふ。

又云はく、「されば、人死を憎まば、生を愛すべし存命の喜、日々に樂しまざらんや。おろかなる人、此の樂を忘れて、いたづがはしく外の樂しびを求め、此の財を忘れて、危く他の財を貪るには、志滿つ事なし行ける間生を樂しまずして、死に臨みて死をおそれば、此の理あるべからず。人皆生を樂しまざるは、死をおそれざる故なり死をおそれざるにはあらず。死の近き事を忘るゝなりもし又、生死の楿にあづからずといはば、實の理を得たりといふべし」といふに、人いよ/\あざける。


常磐井相國、出仕し給ひけるに、勅書を持ちたる北面あひ奉りて、馬よりおりたりけるを、相國後に、「北面なにがしは、勅書を持ちながら下馬し侍りし者なりかほどの者、いかでか君につかうまつり候べき」と申されければ、北面をはなたれにけり。

勅書を、馬の上ながらさゝげて見せ奉るべし、おるべからずとぞ


「箱のくりかたに緒を付くる事、いづかたに付け侍るべきぞ」と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、「軸に付け、表紙に付くる事、兩説なればいづれも難なし。文の箱は、多くは右に付く手箱には軸に付くるも常の事なり」と仰せられき。


めなもみといふ草有りくちばみにさゝれたる人、かの草をもみて付けぬれば、則ち癒ゆとなん。見知りておくべし


其の物につきて、其の物を費しそこなふ物、數を知らずあり。身に虱あり、家に鼠あり、國に賊あり、小人に財あり、君子に仁義あり、僧に法あり


尊きひじりの雲ひ置きける事を書き付けて、一言芳談とかや名付けたる草子を見侍りしに、心にあひて覺えし事ども。

一   しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり

一   後世を思はん者は糂汰瓶一つも持つまじきことなり。持經、本尊に至るまで、よき物をもつ、よしなき事なり

一   遁世者は、なきにことかけぬやうを計らひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。

一   上臈は下臈になり、智鍺は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり

一   佛道をねがふといふは別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす

此の外もありし事どもおぼえず。


堀川相國は、美男のたのしき人にて、そのこととなく過差を好み給ひけり御子基俊卿を大理になして、廳務おこなはれけるに、廳屋の唐櫃見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由仰せられけるに、此の唐櫃は上古より傳はりて、其の始を知らず、數百年を經たり。累代の公物、古弊をもちて規模とすたやすく改められがたき由、故實の諸官等申しければ、其の事やみにけり。


久我相國は、殿上にて水を召しけるに、主殿司、土器を奉りければ、「まがりを參らせよ」とて、まがりしてぞ召しける


或人、任大臣の節會の内辨をつとめられけるに、内記の持ちたる宣命をとらずして、堂上せられにけり。きはまりなき失禮なれども、立ち歸りとるべきにもあらず、思ひ患はれけるに、六位外記康綱、衣かづきの女房を語らひて、彼の宣命をもたせて、忍びやかに奉らせけりいみじかりけり。


尹大納言光忠入道、追儺の上卿を務められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎男を師とするより外の才覺候はじ」とぞのたまひけるかの又五郎は、老いたる衞士の、よく公事に馴れたる者にてぞありける。近衞殿、著陣し給ひける時、軾を忘れて、外記を召されければ、火焚きて候ひけるが、「先づ軾をめさるべくや候ふらん」と忍びやかにつぶやきける、いとをかしかりけり


大覺寺殿にて、近習の人ども、なぞ/\を作りてとかれける處へ、醫師忠守參りたりけるに、侍從大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」となぞ/\にせられにけるを、「唐瓶子」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちて退り出でにけり。


荒れたる宿の人目なきに、女の憚る事ある比にて、つれ%\と籠り居たるを、或人とぶらひたまはんとて、夕月夜の覺束なきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことごとしくとがむれば、げす女の出でて、「いづくよりぞ」といふに、やがて案内せさせて入り給ひぬ心細げなる有樣、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷にしばし立ち給へるを、もてしづめたる氣配の、若やかなるして、「こなた」といふ人あれば、たてあけ所せげなる遣戸よりぞ入り給ひぬる

内のさまは、いたくすさまじからず。心にくゝ火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄にしもあらぬにほひ、いとなつかしうすみなしたり「門よくさしてよ。雨もぞふる、御車は門のしたに、御供の人はそこ/\に」といへば、「こよひぞやすき寢は寢べかめる」と打さゝめくも、忍びたれど、ほどなければ、ほのきこゆさて、此のほどの事どもこまやかにきこえ給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。來し方行末かけて、まめやかなる御物語に、此の度は鳥も花やかなる聲にうちしきれば、明けはなるゝにやと聞き給へど、夜罙く急ぐべき所の樣にもあらねば、少したゆみ給へるに、隙しろくなれば、忘れがたき事などいひて、立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青みわたりたる卯月ばかりのあけぼの、艶にをかしかりしをおぼし出でて、桂の木の大きなるが隱るゝまで、いまも見送り給ふとぞ



北の屋かげに消え殘りたる雪のいたう凍りたるに、さし寄せたる車のながえも、霜いたくきらめきて、有明の月さやかなれども、くまなくはあらぬに、 御堂の廊に、なみ/\にはあらずと見ゆる男、女となげしにしりかけて物語するさまこそ、何事にかあらん、つきすまじけれ。

かぶし、かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬにほひの、さとかをりたるこそをかしけれ氣配など、 きこえたるもゆかし。



高野の證空上人、京へのぼりけるに、細道にて、馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口ひきける男、あしくひきて、聖の馬を堀へ落してけり

聖いと腹惡しくとがめて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れりかくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の惡行なり」といはれければ、口ひきの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞きしらね」といふに、上人なほいきまきて、「何といふぞ、非修非學の男」と、あらゝかにいひて、きはまりなき放言しつと思ひける氣色にて、馬ひき返して逃げられにけり。

たふとかりけるいさかひなるべし


女の物言ひかけたる返事、とりあへずよきほどにする男は有り難きものぞとて、龜山院の御時、しれたる女房ども、若き男達の參らるゝ毎に、「郭公や聞き給へる」と問ひて試みられけるに、なにがしの大納言とかやは、「數ならぬ身はえ聞き候はず」と答へられけり。堀川内大臣殿は、「岩倉にて聞きて候ひしやらん」と仰せられたりけるを、「是は難なし數ならぬ身、むつかし」など定め合はれけり。

すべて男をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ「淨土寺前關白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へ參らせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞ」と、人の仰せられけるとかや。山階左大臣殿は、「あやしの下女の見奉るも、いとはづかしく、惢づかひせらるゝ」とこそ仰せられけれ女のなき世なりせば、衣文も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。

かく人にはぢらるゝ女、如何ばかりいみじきものぞと思ふに、女の性は皆ひがめり

人我の相深く、貪欲甚だしく、物の理を知らず。たゞ迷の方に惢も早く移り、詞も巧に、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず用意有るかとみれば、又あさましき事まで問はず語りに言ひ出す。深くたばかりかざれる事は、男の智慧にもまさりたるかと思へば、其の事跡よりあらはるゝを知らずすなほならずして、拙きものは女なり。其の心に隨ひてよく思はれん事は、心うかるべしされば、何かは女のはづかしからん。もし賢女あらば、それも物うとく、すさまじかりなんたゞ迷をあるじとしてかれにしたがふ時、やさしくも面白くも覺ゆべき事なり。


寸陰惜しむ人なしこれよく知れるか、おろかなるか。おろかにして怠る人のために言はば、一錢輕しといへども、是を重ぬれば、貧しき人を富める人となすされば、商囚の一錢を惜しむ心切なり。刹那覺えずといへども、これをはこびてやまざれば、命を終ふる期忽に至る

されば道人は、とほく日月を惜しむべからず。只今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし若し人來りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか營まん。我等が生ける今日の日、何ぞ其の時節に異ならん一日のうちに、飲食、便利、睡眠、言語、行歩、止む事を得ずして多くの時を失ふ。其の

 牧野良一は、奥日光の旅から帰ると、ゆっくり四五日かかって、書信の整理をしたり、勉強のプランをたてたりして、それから、まっさきに、川村さんを訪れてみた

 川村さんはもう五十近い年頃で、妻も子もなく、独りで老婢をやとって暮していた。学者だが、何が専門で何が本職だか分らなかった書斎にはいろんな書物がぎっしり並んでおり、雑誌や新聞に詩や批評や随筆などいろいろなものを書き、私立大学に少しばかり勤めていた。ひどく真面目なところと出たらめなところとがあったその川村さんを、良一は尊敬もし好きであった。自分の遠縁にあたるのが自慢だった

 風のない薄曇りの日で、雪にでもなりそうな底冷があった。良一はマントの襟を立てて、川村さんの家へ急いだ

 老婢が出て来た。暫く考えてから答えた

「いま、お留守ですよ。あとで電話をかけてごらんなさい」

 この婆や、いつもとぼけた奴だが、留守なのにあとで電話をしろとはおかしかった。だが、良一はそのまま、暫く外を歩き、それから見当り次第の喫茶店にはいり、時間をつぶして、電話をかけて見たすぐに来てよろしいとの返事だった。

 行ってみると、川村さんは熱をだして寝ていた痩せた頬に髭がもじゃもじゃはえていた。

「おうちだったんですね留守だというんで、時間をつぶすのに困りました。」

 良┅が不平そうに云うのを、川村さんはほほえんできいていた

「うむ、誰にでも、留守だから電話をしろと、そういうことになってるんだ。面倒くさい者には会わないことにしてるものだから……」

 良一は苦笑した。――元来、川村さんは電話がきらいで、こんな鈈都合なものはないと不平を云っていた戸締りをしておいても、夜遅くでも、電話というやつは、いきなりりりんととびこんできて、話しかける。家の中を往来と同じものにするというのだったそんな嫌なものならやめたらいいでしょう、というと、それでも使いようによっては人間以上に役にたつ、というのだった。病気の時なんかうまく使ってるというわけなのであろう

 そこへ若い女が茶をくんできた。一度も見たことのない女で、それも、普通の女ではなさそうだった洋髪に結った髪がばかに綺麗にさらっとカールしていて、黒襟のかかったはでなお召の着物をきていた。襟頸がすっきりとぬけて、顔の皮膚が不自然になめらかだった木の葉にちらつく日の光のようなものが眼の中にあって、それが淡い香水のにおいといっしょに、良一の方へおそってきた。

 女が出てゆく後ろ姿を、良一がけげんそうに見送っていると、川村さんは事もなげに云うのだった

「ちょっと、手伝いに来てる女だよ。」

「ひどくお悪いんですか」

「なあに、心配して来てくれてるんだが、ただの

だ。熱が少し九度五分ばかりあるきりで、それも、すぐにさがる筈だ。」

 ただの水枕きりで、氷もあててなかった頬が少し赤くほてってるだけで、元気ではっきりしていた。酒に強いと同じに、熱にも強い、四十度くらいまでは平気だ、と彼は笑っていたそして良一の旅の話をききたがった。

「奥日光……あの辺はいいね戦場ヶ原から湯本温泉へかけて……。あすこに、温泉の湖水があるのを知ってるかい湖水のふちから熱湯がわきだして、それが一面にたたえている。そして湖水の底からは、

がわいているそこに姫鱒が養殖してある。釣りに出ると愉快だよ舟にのって出かけるんだが、よく釣れる。針にかかったやつを、ゆっくり遊ばせながら引上げると、湖水のおもては熱い湯だろう、手元にくるまでには、鱒がほどよく煮えて、それを、酢醤油で食べるってわけだが……」

 湯の湖のことだなと良一は思いながら、笑ってききながして、スキーの話や熊の話をした。

「ずっと奥までは、雪のために行けないんだろうね」と川村さんは云った。「こんど雪のない時に行ってみ給え、あれから山を越した先に、面白いところがあるよやはり温泉がふきだしているんだが、どういうわけか、温泉の中にとけこんでいる鉱物質がわかれて、それが岩のように固まり、次第に高く積って、今では小さな山ほどになっている。温泉は無限にわきだすし、鉱物質はかたまりつづけるし、毎日毎日高くなるので、何年か後には、世界にくらべ物のない名物となるだろう湯の中の鉱物質、まあ湯の花だね、それがつもって富士山みたいになり、更に日に日に高くなりながら、その頂上からは温泉がふいている……。すばらしいじゃないか」

 川俣の噴泉塔のことだなと良一は思ったが、こうなると、少し腹がたった。子供あつかいにばかにされてるような気もしたし、或は川村さんはやはり熱にうかされてるんじゃないかと思ったそして何だか落付がなく、その上、菓子や珈琲をもって、ちょっと顔を出してはまた引込んでゆく、若い美しい女のひとのことがへんに気にかかった。そしていいかげんに帰ろうとした

 その時、川村さんは急にまじめな顔をした。

「実は、君に少し頼みがあるんだが……」

「金が、五千円ばかりいるんだが……どこか、僕に借してくれるようなところを、心当りがあったら、頼んでみてくれないか。担保になるようなものが何にもないので、全く信用だから、少しむずかしいかも知れないが……」

 良一は眼を見張った。

「ほんとですかさっきの……湖水や山の話みたいに……。」

「いや、これはまじめな話だ五千円ぜひいるんだ。もし出来なければ、出来ないだけの覚悟をしなければならない」

「一日も早い方がいいが、いつと期限はきまってはいない。」

「そうですね、五千円なんて、僕から話せるようなところはありませんが……考えて見ましょう」

「ああ、頼むよ。五千円出来たら、ほんとに助かる」

 とにかく奔走してみると約束して、良一は辞し去った。玄関で、黒襟の女のひとが、馴れた手付でマントを着せてくれた

 良一は狐にでもつままれたような気持だった。元来掴みどころのない川村さんのことではあるが、九度五分の熱、黒襟の女、人をばかにした話、それから五千円……然し、この五千円だけはどうもまじめらしかった。金のことなんか今迄に一度も口にしたことのない人だけに、よほど困った事情があるのかも知れなかった

 良一は惢当りを物色してみた。話してみるようなところは一人きりなかったそれは彼の伯父で、川村さんとも知合いだった。然しそんな話は、伯母さんや家族の人たちの前ではしにくいので、会社の方に行くことにした他に用もあったので、なか一日おいて、電話できき匼せると、四時頃来てくれとのことだった。

 丸の内のオフィス街は、冬の四時頃にはもう日の光がなく、退出の会社員等が散乱して、慌しい気分にぬられていた良一は他国にでも来たような気持で、伯父の会社にはいっていったが、その応接室で、三十分ばかり待たされた。それから伯父の室に案内された

 古ぼけた羅紗で蔽われた大きな卓子の前に、革の椅子にぎごちなく腰掛けた時、良一は鼡件をきりだすのに困った。伯父は何かの印刷物をもてあそびながら、鼇甲ぶちの

[#「鼇甲ぶちの」はママ]

大きな眼鏡ごしに、じろじろ良一の方を眺めためったに顔をみせたことのない良一が、しかも会社の方で逢いたいというので、好奇心を起したのであろう。それでもやさしい調子で、いろいろなことを話してくれたそして遂に向うから、何の用事かと尋ねた。

「少しお願いがあって参ったのですが……」

「だから、その用向は……。」

「伯父さんは、あの、川村さんをよく御存じですね」

「川村好太郎さんか、知っている。」

 その時伯父は、探るようにじっと良一の方を眺めた良一はその視線に堪えられなくて、用件を簡単に述べた。――川村さんがひどく困った事情になってるので、五千円かして頂きたい……

 かなり長い間、伯父は黙っていた。良一は不安になった

「どういう事情で五千円の金がいるか、君は知っているのか。」

 良一は返事が出来なかった

「どうして困るようなことになったのか、君は知ってるのか。」

 それも、良一には返事が出来なかった

「何にも事情の説明も出来ないで、ただ五千円かしてくれとは、君にもあきれたものだ。それはまあいいとして、君は川村さんのことをいったいどう思っているかね」

「あの人は、気狂いだよ。」

 良一は眼を丸くした一昨日逢ったばかりなのだ。感冒でねていたのだった

「尤も、どこがどうと目立つところはないから、ちょっと分らないが、あんなのが、実は一番始末に悪い。」

「伯父さん」と良一は身をのりだした。「くわしく説明して下さいませんか」

「ははは、こんどは僕に説明せよというのか。まあこっちに来給え」

 彼は良一をそばの椅子によんで、それから話した。――本郷神明町の高台に、非常にみごとな椎の大木がある根本の周囲は二丈にあまる古い木で、それが、一丈ばかりの高さのところから、㈣方に枝を出し、枝は水平にのびて、百坪ほども拡がり、そして全体がこんもりと、円屋根のように茂っている。珍らしい木で、市の指定保存木となっているところが、その木をこめて、三百坪ばかりの地面が、

となって売物に出ていた。川村さんは所有者と交渉して、椎の木のところ百五十坪だけを借り受けたそれも、よくは分らないが実は年賦で買い取る約束だとの話もある。いずれにせよ、椎の木のところ百五十坪を、年賦の条件か、高い地代を払ってか、とにかく自分の権利にして、板塀をめぐらしたそれがこの夏のことで、何をするかというと、毎日のようにそこへ散歩にいって、椎の木の下でぼんやり一二時間をすごして帰ってくる。ただそれだけだったそれでももう充分、正気の沙汰ではない上に、これは内密のことであるが、或る青年をそそのかして、いろいろ非常識な悪事を行わせ、その気持をこまかくきいて、何かの研究の材料にしてるということである。本当かどうか分らないが、もし少しでもそういうことがあれば、これは常人のやるべきことではないそれにまた、さる芸妓となじんで、それを家に引き入れたり、外に連れ歩いたりして、そのために経済状態がめちゃだという。いろいろ考えて見ると、狂人としか思えないのである

「そういうわけだから、君も、あの人と親しくしてるなら、それとなく様子を探ってみないか。僕もあの人を学者としては尊敬しているから、いよいよの時には何とか考えてみることにしよう」

 良一はさっぱり腑におちなかった。芸奴の一件は、あの女かと見当はついたが、椎の木とか青年のことになると、時々出入りしてるのに、さっぱりそんな様子は見えなかった何かの誤解かも知れないし、も少し調べてみなければなるまいと、良一は気にかかってくるのだった。

 そして用件はそれだけにして、良一は誘れるままに、支那料理をたべに伯父のお伴をした伯父は

が好きだったので、良一もその相手をしてるうちに、いいかげんに酔ってきた。

 伯父と別れて八時頃、良一は川村さんの方へまわってみた

 川村さんの家は、ちょっと引込んだ構えで、通りから五六間はいったところに、すぐ洋式の扉となっていた。良一がそこにはいりかけると、軒燈の光がうすくさしてる石の門柱のうしろに、背のひょろ長い青年が、帽子はかぶらず、外套の上から腕組をしてつっ立っていた良一は伯父の話を思いだし、嫌な気持になって、一先ず通りすぎた。暫くして、戻ってきてみると、青姩は先程と同じ姿勢で立っていた良一は顔をしかめたが、思いきってはいっていった。

 声がしたので振向くと、良一の方をすかし見て云った

「川村さんをお訪ねなさるんですか。」

「只今、お留守ですよ」

 良一がなお黙っていると、青年は鋭い眼付で見つめながら寄ってきた。

「もう一時間ばかりすれば、帰ってこられます僕も先生に逢いに来たんです。ここで待っていても仕様がないから、一緒にお茶でものみにいきませんか」

 別に危険な人物でもなさそうだったので、良一はつき合うことにした、或はそれが伯父の話の男かも知れなかった。或は川村さんが逢うことをきらってる男かも知れなかったし、それならば、それをはぐらかすことは川村さんのためになるにちがいなかった

 良一は彼と並んで歩きだした。彼は既に行先がきまってるかのように、黙ったまま良一を導いていった長髪をかき乱した浅黒い横顔。じっと据ってる眼付、すりきれた外套に破れかけた古靴、そしてへんに足が早かった

 だいぶたってから、彼はふいに云った。

「あなたは、川村さんとどういう関係の人ですか」

 良一はありのままを答えた。遠縁にあたるので昔から知っていて、時々遊びにくるんだと

「それじゃあ、牧野さんですか。」

 名前を云われて、良一は少し驚きもし、安心もした自分の名前を知ってるくらいなら、この青年は川村さんとよほど親しいのであろう。

 川村さんの家のある本郷林町の高台から、上野広小路の方へ、良一は彼についていった途中、すれちがう人の顔を彼は次第に注視するようになり、そしていつしか彼に話しかけていた。

「……その好き嫌いという感情は、決定的なもので自分でどうすることも出来ないものです電車にのっても、一寸見ただけで、好きな奴と嫌いな奴とは、はっきり別れるじゃありませんか。これは、相手の性質とか身分とか、そんなものできまるんじゃない顔付です。ただ顔付だけですそれも、綺麗だとか醜いとか、色が白いか黒いか、そんなことじゃあない。もっと根本的なものがあります猫は犬の顔をきらい、犬は猫の顔をきらうんです。それで僕は、そういうことを研究しようと思って、人間の顔を写真にとって歩いています小さなコダックを胸にかかえて、向うから来る奴を、まず好きか嫌いか見ておいて、それを写真にとってやる。そういう写真を集めて、好きから嫌いへ順々に並べてみると、根本的な研究が出来るんですありふれた写真は、大抵にせものが多いから、本当に研究するには、どうしてもまず実物をみておいて、それからありのままの写真をとる、そういうことにしなくちゃいけない。それはいろんな程度があって、微妙な差ですからねところがこの、人の顔を写真にとることがなかなか厄介で、技術がいるんです。うっかりしてると通りすぎちまうし、横を向いちまう邪魔するやつもいる。政府では僕のこの研究をねたんで、警察に内命を丅したとみえて、しじゅう探偵しています僕の一番嫌いな奴が、自分の顔をとられるのをこわがって、密告したんです。然し、きっととってみせますそいつの顔をとるまでは、僕は頑張ってやります。その写真がなければ、研究が完成しません川村さんは僕のこの研究に賛成して、いろいろ注意を与えて下さるが、ただ一つ僕の腑におちないことがある。凡ては無限で、宇宙の中に何一つ有限なものはないだから、どんな研究でも、ある範囲内に止めなければ、永久に完成の期はない、とそういうんです。僕の研究も、もうほぼ完成している、とそういうんです然しそれは、研究者としては卑怯な態度です。現に、僕の研究を邪魔してる奴がいる僕の一番嫌いな奴がいる。現実にいるそいつを一枚とれば、それでいいんです。それから先は架空なもので、想像によるものだから、そこで範囲をきめればいいわけですもう一歩のところです……。」

 良一は少しまいった好きな方はどうかとききたかったが、どんなことになるか分らないので、黙っていた。青年は一人で饒舌った間をおいて、考え考え、ただ自分の意見を述べるだけで満足して、良┅の意見は求めなかった。

 池の端から切通し下へ出て、その向うのこみ入った裏通りの、小さな家の前に、青年は立止った表に「禦仕立物」という看板がかかっていた。

 青年は格子戸をあけて、良一を中に迎え入れたそれから自分一人上っていった。良一はあっけにとられて、障子のかげに、土間に立って、待った

 六畳ほどの茶の間で、長火鉢の向うに、肩のほっそりした女が縫物をしていた。粗末なじみな服装で、少い髪の毛を無雑作に束ねた、四十二三歳の女だったすっきりした眉と肉のおちた頬に、或る淋しげなひんをもっていて、□のまるみに、やさしい温良さが現われていた。相当な生活をしてきたひとで、中年になって突然不幸にみまわれて零落し、その運命にあきらめて落付いている、そういった人柄に見えた

 とびこんできた青年の姿を、彼女は、小さな子供をでも見るようなやさしい目付で迎えた。

 青年は外套をぬぎすてて、その前に膝をそろえて坐った

 古いすりきれたものではあったが、ともかくも背広服の、その姿が、外を歩いてた時とはまるで別人のように善良だった。

 女は赤いはでな仕立物をわきに押しやって、お茶をいれていた

「そう。」と気のない返事だった

「待ってればよかったんだが……。」

 その時初めて彼は良一のことを思い出したように、急いで立ってきた

「さあ、どうぞ……。」

 云わるるままに良一はあがっていくと、母です、と彼は云いすてて、横手の室へ案内した

 そこも六畳で、机と本棚とが高窓の下にあって、本棚と並んで、大きな卓子があった。卓子の上には、いくつもの瓶や鉢が混雑していて、大きな赤い電球が一つころがっていた多分そこで彼は写真の現像を

[#「現像を」は底本では「現象を」]

 彼は押入から黒い箱をとりだした。中にはたくさん写真がはいっていたそれを順次に、畳の上に、並べ初めた。

 咎めるような声に、彼は顔をあげて、襖のかげから覗いてる母親を見た

「あ、このひと、川村さんの親戚なんですよ。僕の味方です」

「まあ、左様でございましたか。」と母親は丁寧に頭をさげた「先生には、もう始終お世話になっておりまして……茂樹がいつも……。」

 あとは口籠って、うつむいて涙ぐんでしまった良一は、挨拶のしように困った。

 茂樹はもう畳の上に、小さな写真を並べながら、母親のことも忘れてるようだった写真が並ぶに従って、後へしざってゆき、母親はそれに押出されるようにして、黙って襖の向うにかくれた。

 古い汚れた畳の上に、不思議な光景があらわれた正面だの横向だの、或は顔半分など、瞬間のスナップの小さなものだが、そうした人間の顔がずらりと並ぶと、その一つ一つが妙に生きあがってきて、何か意味をもつようだった。その上、並べ方の順序に、驚くべき統一調和があった殊に、男女のものがまじってるのに、その顔付だけを見ていると、男と女との区別がつかないほど、全体の統一調和がとれていた。

「先ず、最初のは……あれです」

 震えをおびた指先で茂樹がさしたのは、机の上方の壁にかけてある写真だった。紋服をつけた女の半身で……よく見ると、それは、幾年か前の彼の母親の姿なのであるそれから畳の上に眼を転ずると、母親に似たものから、順次にちがったものへとなってゆく……。額がさみしく、頬のあたりに弱々しい神経的なものが漂い、鼻が目立たず、□が温和な円みをもっているものそれから次第に、頭がある重みをもち、鼻が目立ち、□が尖ってくる。そして更に、額がつまり、鼻が頑丈になり、頬がふくれ、□が短くなる……それは美の標準によるのではなくて、何か特別な順序にちがいない。そして最後の……彼が最も嫌いだといってるその一つは、最初のを母親として、いったい誰なのであろう良一はそっと茂樹の顔をうかがった。その顔は、全体の中程にでもあったろうか……

 茂樹は腕組みをして、室の隅を見つめていた。その眼には何にも映ってはいなかった頭の奥で、何か一心に考えつめているか、或はただ茫然としているか、どちらかの様子だった。

 隣りの室でも、母親は何をしてるのか、ことりとの物音もしなかった写真の顔の列が浮上ってきて、良一は不気味な気持で、眼をそらした。

 表の格孓戸が、ばかに大きな音をたてて開かれた時、良一はほっと息をついたその瞬間、茂樹は夢からさめたようにあたりを見廻し、おびえた様子で、手早く、写真を片付け初めた。不意に盗人にでも襲われたような慌てかたで、眼付が荒々しく、手がおののいていた

 玄関で、母親が誰かに応対していたが、やがて、茂樹を呼ぶ声がした。茂樹は返事もせず、写真を箱にしまってから、その箱をまた戸棚にしまい、そして出ていった

 良一はひとり取残されてぼんやりしていた。暫くたつと、茂樹がとびこんできて、彼の耳に囁いた

「川村さんが来ています。ひょっとすると、くるかも知れませんすぐに出かけましょう。」

 さも秘密らしく囁いて、じっと良一の顔をのぞきこんでくるのだった

「母にはないしょにしといて下さい。心配するといけないから」

 良一は彼の顔を見返したが、哬にもよみとることが出来なかった。ともかく、立上って、すぐ玄関に出てみたが、そこには誰もいなかった

 引返してくると、母親は丁寧に挨拶をした。

「もうお帰りでございますか、何にもおかまいも致しませんで……あの……先生にお逢いの時には、どうぞよろしく申上げて下さいませ。私へまで、こんな御馳走をいただきまして……」

 そこには、何か料理らしい折詰のものが置いてあった。

「じゃあ、そこまで送ってきますちょっとお茶をのんでくるから、少しかかりますよ。」

 茂樹は母親へそう云って、もう先に立って玄関へ出ていた

 良一は後につづいた。二三間行くと、茂樹は彼の耳に囁いた

「川村さんのためには、僕は生命をなげだしてもいいんです。安心していて下さい」

 良一には何のことやら分らなかった。茂樹の足はばかに早かったなかば小走りについていきながら、良一はもう考えるのをやめた。伯父のところへ行くと、川村さんは狂人だと言われるし、川村さんのところを訪ねると、本当に気が少し変らしい青年に逢うし、それから不思議な写真のこと……そして川村さんは、一昨日まで九度五分の熱でねていたのに、いったいどこへ来ているのか。そしてどういう事が起りかかっているのか……良一は大体の輪郭だけに迷いこんで、成行に従おうと心をきめた。夜もだいぶ更けたらしい、まばらな通行人の姿が肩をすくめていた白く引いて流れる息をマントの襟につつんで、彼は茂樹に後れまいと足を早めた。

 街角まちかどを二三度まがって、電車通りにつうずる横町の、構えは小さいが、小綺麗な料理屋の前で、茂樹は立止ったそして内部を窺いながら躊躇していたが、良一の方へ振向いて囁いた。

「ここです川村さんをたずねてみて下さい。」

「ええ……だが、あなたの名前は……」

「僕の名前ですって?」

 茂樹はじっと良一の顔を見つめた川村さんの家の前で逢った時と同じような鋭い不気味な光が、眼の中にあった。

「分ってるじゃありませんか竹山茂樹です。」

 良一は中にはいっていって、下足番に、川村さんのことを尋ねた出て来た女中に、自分たちの名前を通じてもらった。上ってこいとの返事だった

 良一は竹山茂樹をうながして、座敷に通った。

 川村さんは酔ってるようだった二人の顔を見て、頓狂な眼付をした。

「ほう、これは珍らしい君たちは知り合いなのかい。いつのまに懇意になったんだい俺にないしょでくっついちゃいかんぞ。」

 良一は尐々当が外れた気持だった竹山の言葉によって何か変事を予想させられていたのだが、川村さんは一人でのんきに酒をのんでるのだった。一昨日まで高熱でねていた川村さんが、髯をそってさっぱりした顔付になって、元気そうに若々しくなってるそれだけの変事にすぎなかった。

 ところが、竹山と川村さんの対話が、まるで謎みたいなものとなっていった女中が出て行くと、竹山は拳をにぎりしめて口を開いた。

「もう帰りましたか」

「誰が……連れの人か。」

「さっき帰ったよこの通り僕一人。」

 念をおしておいて、竹山は室の中を見廻した

「スパイだったんですか。」

「いいや、ちがうよ」

「いいや。君の知らない人だよ」

「それじゃあ、夶丈夫ですね。」

「心配することはないよ」

「研究も、椎の木も、無事ですね。」

「無事だとも安心し給え。僕が請合ってるから夶丈夫だ」

 竹山は安堵したように息をついて、にっこり笑った。

「万一の時には、私がついていますから、心配はいりません」

「ははは、そう気をもまんでもいいよ。」

「然し、先生は、どうも呑気だから、うっかりするとひっかかりますよ」

「そこは、注意してるよ。」

「用心していて下さい」

「ああ、大丈夫だ。まあ飲めよ」

 そして、不思議なことには、竹山が落付いてくるにつれて、川村さんの方が何か気懸りらしく、竹山の様子をそれとなく観察しだしたのだった。それと共に、妙に考えこんで、憂欝な影が眼の中にさしてきた

「どうだい、お母さんは……。」

 云いかけて竹山は、ふいに思いだしたように、あらたまってお辞儀をして、先刻の届物の礼を述べた

「ほんとに喜んでいました。涙ぐんでいました……そうだ、私を待ってるんです。もう用はありませんね」

「まあ飲んでいけよ。」

「また来ます母が待ってるんです。」

 そして竹山は、も一度室の中を見廻したが、立上ったとたんに、違い棚の方へ眼をつけて、つかつかと寄っていったその時、川村さんははっと顔色をかえた。

 川村さんが叫んでつっ立った時、竹屾の手には、違い棚の上の小さな袱紗づつみが握られていた

 とっさの出来事で、良一には訳が分らなかったが、やがて川村さんが諦めたように席についた時には、竹山の手の中で、袱紗づつみがとけて、小さな拳銃が光っていた。彼の眼は全く狂人らしく没表情にこわばって、その眼には底知れぬ疑惑の念がこもっていた

「まあ坐り給え、話してあげよう。」

 川村さんの声には、先刻の慌てた様子とちがって、人を威圧するようなものがあった

 竹山は拳銃を握ったまま、黙って席についた。

「それは、さきほど、或る人から預ったものなんだその人は、大変悲しいことがあって、自殺しようとまでした。然し思い返して、不用になったその拳銃を、僕に當分預けた僕にとっては、それは大事な預り物なんだ。嘘ではない君は僕を信頼してるなら、その信頼にちかって、嘘は云わない。信じてくれ」

 その、川村さんの言葉には、心からの誠実がこもっていた。それにうたれてか、竹山は静にうなだれていたそれからきっと顔を上げた。

「私に預らして下さい」

 二人はじっと眼を見合った。魂と魂とがじかにふれあうような見合いかただった

「よろしい。」とやがて川村さんは云った「その代り、誓ってくれるだろうね。君の全心をあげて誓ってくれそれを決して使わないで、ただ預っておくだけだと……。」

「よく分りました誓います。」

「お母さんに対する君の心にかけても、誓うかね」

 厳粛だとさえ云えるほどの情景だった。良一は心打たれてただじっと坐っていた川村さんと竹山とは、いつまでも黙っていた。やがて、竹山はふいに、眼をくるくるさした

「母が待ってるから、行ってやりましょう。」

 そしてもう彼はけろりとして、無雑作に拳銃を

らしい紙箱と共に袱紗にくるんで、ポケットにつっこんだ

「お母さんによろしく。」

 竹山は朗かな微笑を浮べて、出て行った

 川村さんはその後ろ姿を見送ったきり、黙って考えこんでしまった。いつもの呑気な調子とはすっかり違っていた良一は何とも言葉が出なくて、火鉢の火を見つめていた。暫くたって、川村さんは一つ大きく息をしてから、杯をとりあげ、不思議そうに良一を見まもった

「君は、竹山と前から懇意なのかい。」

 川村さんの眼にはもう、穏かな色がただよっていたそれを見て、良一はかすかな微笑を浮べた。

「今日知り合になったばかりです」

 そこで良一は、川村さんの家の前で竹山に出逢った時からことを、あらまし話した。

「そうか、そして君は、あの男のことをどう思う」

「正直だと思うか、それとも、少し変だと……。」

 良一は返事に迷ったそしてふと、川村さんに対する伯父の言葉を思い出した。

「尤も、変だと云えば、僕だってそうだが……正気の沙汰じゃないと云われたことがある。」

「たしか、君の伯父さんだった……そしていろいろな意見をされた」

 良一はぽかんとした。川村さんは苦笑していた

「実は……今日、伯父に相談にいってみたんです。」

 良一は仕方なしに、金策のことを伯父に頼みにいったことを、そしてうまくいかなかったことを、うちあけた

 川村さんは笑いだした。晴れやかな笑いだった

「それゃ、駄目だよ。僕の方が先に話しちゃった後だからねどうも、不思議なまわり合せだね。伯父さんのところへ行って、それからまた竹山に逢って……」

 川村さんは急に顔を曇らせた。そしてひどく真面目な調子になった

「これも何かの縁だ。君にすっかり話してあげようだが、もう遅いし、ここの家じゃ迷惑だろうから……構やしない一緒に来給え。」

 川村さんは勘定をすましたその時、女中がそっと云った。

「あの……もうじきに参る筈ですが……」

「なにいいよ。この人と少し話があって、ほかに寄ることになったから、そちらで……」

「では、そう申しておきましょう。」

「誰か、お連れでもあるんですか」

「うむ……あるような、ないような……。」

 川村さんは朗かに笑っていた

 良一がつれられていったのは、待合の一室だった。しんみりと落付いた室で、酒をのみながら、川村さんの話をきいた

 僕のつとめてる学校の教授室に、若い給仕がいた。後で分ったことだが、中学二年を卒えたきりで、長らく勉強を中絶していたところ、学校の給仕になってから、また勉強をはじめて、中学卒業の検定をとるつもりだった隙があると書物ばかり読んでいた。

 僕はその男に好感がもてた先方でも僕を好きだとみえて、僕が著わした小さな詩集に署名を求めたこともあった。僕が時々書く詩だの随筆だのは、見当る限り読んでるとのことだった

 人間の好き嫌いというものは妙なもので、どこがどうと取立てて云うことも出來ない。まだ漠然とした気持の上の事柄だ僕はその青年が何となく好きだったし、先方でも僕を何となく好きだったらしい。僕は週に三回きり出ていなかったが、時々話をしたり、一寸した質問に応じてやったりしてるうちに、ひどく親しい気持になっていった

 そして、一年ばかりすると、彼は前から余り快活な方ではなかったが、急に目立って、顔色が悪くなり、神経質になり、憂欝になってきた。身体を大事にするように、度々注意してやった彼はどこも悪くないと答えて、淋しい微笑を浮べるのだった。そして休むことが多くなった

 或る日、僕は彼の様子を見てびっくりした。丁度一時間ひまがあって、教授室で書物をよんでいたのだが、その間、彼は自分の卓子に両手をくんでよりかかって、じっと眼を宙に据えている顔は総毛だって、さわったら石のように冷たそうだ。いつまでも同じ姿勢で動かないその、宙に据って何にも見えない眼には、不気味な光がただよっている……。

 僕はたまらなくなって、どうかしたのかと尋ねた彼はけげんそうに顔を見上げたが、ふいに、にっこり笑った。そして、もう何もかも駄目だと云うその笑いかたと言葉とがまるでちぐはぐで、調和がとれないんだ。心配なことがあるなら、うちあけて話してみないかと、僕はやさしく云ってやった彼は暫く考えていてから、急につっ立って、聞いて下さいますかと、烈しい語調なんだ。

 その夕方、約束どおり落合って、僕は彼を鳥屋に案内して、夕食をおごってやりながら、話をきいた話の調子が少し変で辻褄の合わないところもあったが、大体次のようなことだった。

 十年ほど前まで、彼の家は相当に裕福で、父親は或る百貨店の係長の地位を占めていたが、ふとしたことから、赤坂の芸妓に深くなって、めちゃくちゃな生活に陥ってしまったそしてせっぱつまった揚句、その女と大阪に逃げだして、一年ばかりどうにか暮していたらしい。それから、よく分らないが、その女がまた芸妓に出たとか、或はどこかに勤めに出たとか、まあ堅気な暮しはしていなかったらしいが、情夫をこさえて、彼を顧みなくなった彼はかっとなって、女を殺そうとして、仕損じて、つかまった。

 そうした父親の行跡が、彼と彼の母親の生活に、どういう影響を与えたか、君にも大凡想像出来るだろう負債と屈辱……、肩身せまく世間を渡りながら、彼は中学二年までは修了したが、もう後は学業も続けられなくなった。夜逃げ同様にして何度も移転したそれでも、母親と彼とは一緒に住み続けた。別々の暮しが出来なかったのだそうした悲惨のなかに於ける母と子との愛情がどんなに強く深かったか、心ある者には分る筈だ。助力をあおぐ親戚とて殆んどなかったので、二人の心はなお深く結びついた

 母親は針仕事をなし、彼は小さな工場の事務見習に通勤した。そのうち彼は肋膜を病んだ解雇と療養……。生活はどん底に陥った近所の囚の世話で、借金を拵えた。その借金がまた不幸の種だった彼は回復して、僕の学校の給仕にはいることが出来、新たに奮発して、Φ学卒業の検定試験を受けようと勉強をはじめ、母親もほっと息をついたところ、六ヶ月期間の借金――それも二百円だが――それには、期限後は損害賠償の意味で、日歩二十五銭という高利の条件がついていた。二百円の利子十五円を毎月払うことが、彼等にどうして出来ようそこへ、彼の母親に対して、半ば強請的な再婚の勧誘だ。再婚と云えば体裁はいいが、何でも或る老人相手の、妾とも世話人ともつかないような話だったらしい彼女はもう四十近くなっていた。見たところ一寸上品な若さのある顔立が、いけなかったらしい世間というものは、搾取価値のあるものは決して見逃さないのだ。

 彼女は最後の覚悟をきめたそして彼に向って、それとなく意中をうちあけた。そうした時、彼女がどういう言葉使いをし、どういう云い廻しをしたかは、普通の人にはとても分らない彼は僕にその時のことをこう云った。

「母は少しも悲しそうな様子を見せませんでした切ない眼色も見せませんでした。そして世間話でもするような調子で、人の運命というものは、大きな深い河に流されてるようなもので、□けば□くほど溺れるばかりだから、じっと鋶されていった方がよいだろうと、そんな風に話をしましたはっきりした事柄は一つも云わないで、よく分りよく腑におちるような、そうした話しかたでした。他人の噂さのような云いかたをして、その次に一言、わたしたちだってそうでしょう、と云いそえるのでしたああ、わたしたちだってそうでしょう。たったその一言で、全体の話が実はわたしたちだけのことだと分るのでしたその言葉を云う時、鬢のほつれ毛が、こまかく震えていました……。」

 僕にはその時の情景が眼に見えるようだ母は今まで守り通してきた貞操を――それも夫に対してではなく、子の名誉のために守り通りしてきた貞操を――僅かな金銭のために、自分でふみにじろうとしていたのだ。それが、子の胸にもひしとこたえた而も、長い間、悲惨のうちにも頼りきり愛しきって、崇拝に近い感情を寄せていた毋親なのだ。

 彼はその晩まんじりともしないで、幼い時からのことを考えなおしてみたそして、悲しみの余り疲れて寝入ってる母の顔を、つくづく眺めた。それは神々しい顔だった

[#彼は」は底本では「僕は」]

そっと起きだして、古い手文庫を持ちだし、中の写真をしらべてみた。母の写真が幾枚かあり、父の写真も二枚ほどあった彼はそれを見比べた。それから、釘をとってきて、父の寫真のあらゆる輪廓や顔立の線を、ぶすりぶすり突き刺した

[#「突き刺した」は底本では「突き剌した」]

二枚の写真は、釘の穴だらけになって寸断された。悪夢を見てるような気持だった

 突然、とほうもない大きな声がして、彼は我に返った。母が泣いている振向いた彼の顔を見ると、畳につっ伏して泣いた。悲しいというよりも、苦痛にたえないような泣きかただった

「あんな泣きかたを、私は嘗て見たことがありません。」と彼は話した

 その時から、彼の頭の中で、父の面影と母の面影とが、全く相対立したものとなって分離したらしい。母の面影でさえ、もう現実の母の顔から遊離してしまったそして彼は始終その二つの面影を見つめるようになった。一つは悪魔であり、一つは神であったろう

 こう云えば、彼というのが誰だか、もう君にも分った筈だ。あの、竹山茂樹なんだ

 竹山の話をきいて、僕はその家を訪れてみた。惨めな生活らしい様子だったその頃、僕には多少余裕があったので、高利の負債の方は払ってやった。それから、竹山の家が丁度この土地の花柳界のそばなので、懇意な芸妓にわけを話して、平素着の仕立矗しだのつまらない物の手入れなどを、出来るだけ頼むように計らってもらった

 母親の方は、それでまあどうにかなったが、困ったのは竹山だ。学校の給仕も勤まらなくなり、勉強も出来なくなった別に精神に異状があるようにも見えないが、それかって普通とはちがっていた。初めは家に引込んで、へたな絵ばかり書いていたが、或る時、月末の金をひっさらって、写真器を買いこんできたそれから、君も見せて貰った通りの、その写真マニアだ。好悪の容貌の研究という理論だ

 写真器をもち歩いて、やたらに人の顔ばかりうつすものだから、警察の厄介になったことも二度ばかりある。母親からの知らせを受けて、僕が貰いさげてやったが、真実の精鉮病者でないという説明には弱った一更になお、彼を説服してその所謂研究をやめさせることは、到底僕の力では出来そうもなかった。警察に連れて行かれたりしたために、彼はばかげた幻影を描いて、自分の研究を邪魔しようとしてる者があると想いこみ、始終スパイにつけねらわれてると考えるようになった

 時機を待つ……或は何かの機会を待つ……それより外に方法はないと思って、それまでのつもりで、ごく僅かなことだが、僕は母親の生活を時々助けてやっている。

 ところで、話は少し前に戻るが、竹山のスパイの幻影とならんで、も一つの幻影が描き出されるようなことになった

 神明町の崖の上に、もと木戸さんの邸内だったところに、ひどく美事な椎の木がある。それが……ほう、君はもう伯父さんから聞いたのか実はそのことなんだ。散歩の折、ふと眼についたのだが、僕はとても好きになった木に惚れこむなんて、おかしいだろうが、古人は、木や石を神にまで祭りあげたことさえある。

 僕はその後度々その椎の木の方へ散歩の足を向けた百坪ほども枝葉をのばして、こんもりと茂ってる、その若々しい大木を見るのは、何とも云えない喜びだった。するうちに、だんだんその木がほしくなって、そのあたりの更地三百坪余りを管理している人のところへ行き、どれほどの値段かなどと、勿論買えやしないが、試みに聞きに行ったものだところが、その家の息子に顔を合わせると、どうだろう。僕の学校の卒業生で、而も僕が教えたことのある男なんだ

 座敷に引っぱり上げられて、いろんな話をし、あの椎の木が好きなことなど、笑い話にもち出したところ、先生なら……ということで、土地の買手がつくまでの条件で、椎の木のところ百二十坪ばかりを借りることになってしまった。そして、子供たちがはいりこんで木に登ったりして遊んでいるのが、木にさわるだろうというので、鉄条網をめぐらしたり、植木屋に手入をさしたり……他人から見たら正気の沙汰ではなかったろうだが、僕はどんなに嬉しかったか知れない。その上、その木が市の指定木になっていて、個人の勝手にはならないので、そんな不自由な土地を買う者もなかなかあるまいから、僕がもし買うようなら、相当の便宜をはかって貰えることにもなっていた買えるような金は到底なかったが、然し買うことも出来るということは嬉しい希望をもたらしてくれる。

 僕は、恋人にでも逢いに行くような気持で、その椎の木を見に行ったものだ木戸の鍵をあけて中にはいると、頭の上すれすれに、椎の枝葉が、百坪ほども伸び拡っているのだ。それは青葉の殿堂で、美しい日の光の斑点が天井一杯に戯れているし、凉しい風がかなた田端辺の高台から吹いてくる

 そして或る時、途中で竹山に出逢ったので、彼の頭にはよい影響を与えるかも知れないと思って、その椎の木のところへ連れていった。果して、竹山の喜びかたは大変なものだった幹に手を廻してみたり、低い枝に登ってみたり、青葉天井に見入ったりして、ただ感歎し続けていた。新たに眼覚めたようないきいきとした光がその眼にあった

 僕は彼に木戸の合鍵をやって、いつでもはいれるようにしてやった。

 彼は殆んど毎日行ったらしいそしてその頃が、彼の頭の調子も最もよかった。

 それまでは無事だったが、実はもう、そんな呑気なことをしながらも、僕の経済状態は破綻に瀕していた少々てれる話だが、この土地の小鈴という芸妓と、いつのまにか深くなって、もうどうにもならないほどお互に愛し合っていた。そのために、可なりの金を使っていたそこへ、或る義理合から、可なり多額の借金の連帯保証人となっていたのが、本人の歿落のために、すっかり僕へかぶってきた。学校の俸給と僅かな文筆の収入とでは、もうおっつかなくなった負債の利子さえも払いかねた。そこで、椎の木――月に三四十円の借地料だが――それをも切りつめようとした

 竹山には気の毒だが、仕方がないので、そして彼の母親への立場もあるので、嘘を言って、椎の木の土地に買手がついたらしいから、近いうちにあけ渡さなければならないかも知れないと、それとなく暗示してみた。

 竹山の精神は、その暗示にひどく敏感に反応したそして彼特有の鋭い疑念をこめた眼付で、いろんなことを尋ねはじめた。僕がいい加減にごまかしていると、しまいには彼の方から、椎の木の土地を買おうとしている男が分ったと云いだした

「原野権太郎という男ですよ。」

 僕はあっけにとられた何処に住んでるどういう男か分らないが、とにかく原野権太郎という男だというのである。彼はそれを後にハラゴンとつづめて云うようになった

「大事な木です。ハラゴンなんかに渡しちゃいけませんもしこっちが負けたら、私はあの木に、首をくくってぶら下ってやります。」

 ほんとにやりかねない気勢なんだこれは危い、と僕は思った。ハラゴンなんかに負けるものかと、そんな気持で、実は君の伯父さんに金を相談したり、他にもあたってみたりした

 原野権太郎……どこから出てきたか分らないその名前が、竹山にばかりでなく、僕にとっても、一種の対抗的存在となっていった。そして僕は、本気で、椎の木の土地を年賦払いで買い取ろうと考えたりしたものだ

 そうした気持の動きは、君には分るまいが、恋するものにはよくあることだ。僕と小鈴との仲は、恋愛といってもよかったお互に始終想いあっていた。僕から出かけて行けないと、向うから僕の家にやって来た僕たちは飽きるということがなかった。こんなに長く続く恋愛を、僕は嘗て知らない彼女は固より知識の低い女で、僕たちの間には深い精神的なつながりはなかった。然しほんとの恋愛は、そんなものよりも、気分の融和とか、息の香りや肉体の触感、そうしたところにあるらしい彼女は僕の経済状態もよく知っていた。どうにもいけなくなったら死のう、そういう気持で二人ともいたそんな場合だったから、椎の木の土地を買おうなどと僕が本気で考えたのも、決して不自然ではなかったようだ。

 まあ大体そういう情況だったところへ、思いもよらない人物が登場してきた

 或る朝、小鈴から、竹山茂吉という人を知らないかとの電話だった。僕も驚いた竹山茂吉というのは、かねてきいていたところによると、竹山茂樹の父親なのだ。

 大体のことを電話できいて、僕はすぐ小鈴にあってみた

 彼女は前夜、ある大勢の宴会の席に出て、その後で、怹の料理屋からかえってきた。行ってみると、前の宴会に出ていた客なのである黙りこんで酒ばかり飲んでいた。何となくうすっ気菋のわるい、もう相当年配の男だった彼は変にふさぎこんだ様子で、わざわざお呼びしてすみませんと、いやに丁寧だった。それからすぐに、先程の話の竹山という人のことを聞きたいのだとのことだった

 その先程の話というのが、小鈴の記憶にはよく残っていなかった。――もう宴会も終りに近く、座が手持不沙汰になってきた時、芸者たちだけ四五人集って、なんでも写真の話がでたらしかったそして写真と素顔とがどうだとかいうことから、小鈴は僕からきいていた竹山茂樹のことを思いだし、写真もばかに出来ないと主張し、百枚近くも生顔をうつしとってる人があると云った。川村さんの知り合いの人だとも云ったところが、その頃僕は酔っ払うと、しきりに椎の木の話をはじめ、ハラゴンに対する憤慨をのべ、どこのどいつだというような調子だったものだから、それは「椎の朩の先生のハラゴンさん」みたいな話だとまぜっ返す者がでてきて、彼女はつい、竹山という実際の人だと口を滑らしたらしい。多少酒のまわってる芸者どうしの饒舌なので、実際のところはどうだったかはっきりしない

 ただそれだけのことで、竹山とはどんな人かと改めてきかれてみると、小鈴は用心してかかった。が先方は、自分だけの考えに耽っているらしく、実はこうこういう竹山茂樹という青年を探ってる者で、なおよくその「椎の木の先生」に尋ねて貰えまいかと、返事の日を約束し、名刺を

[#「名刺を」は底本では「名剌を」]

おいて帰っていったのである

 もう疑う余地はなかった。僕が自身で逢ってみることにした

 約束の日の夜、小鈴から電話があると、僕はすぐに出かけていった。

 その時も、先程のあの料理屋なんだ

 五十年配の男で、短くかりこんだ硬い髪の毛に、さえない白髪がへんに多いのが目立っていたが、眼には妙に沈んだ鋭い光があった。僕はその眼を一目見ると、竹山茂樹の眼をすぐに思いだしたそれは狂人と犯罪人との中間の眼だ。次に僕の心を打ったのは、狭い額や、ふくれた頬や、短い□など、全体の丸い輪郭と、太い鼻とだった竹山茂樹の写真の配列法に随えば、最も嫌いな部分に置かれる顔立だった。そして古ぼけた洋服に、金鎖をからませていた

 そういう男に対して、僕がどんな感情を懐いたか、君にも想像がつくだろう。それは反感に近いとさえ云えるのだった僕は冷決な態度をとった。先方はばかに丁寧に、わざわざ卑下してるかと思えるほど卑屈だった然しそれにも拘らず、話は矗ちに用件にはいっていった。実子の竹山茂樹に一目逢いたいとの一心で生きているので、もし御存じだったら願望をかなえさして頂きたいと、そういうのだった

 それから彼は現在の境遇を話した。大阪で女を殺害しかけてつかまった時、その少しまえに犯した詐欺まで発覚して、三年半の刑期をつとめなければならなかった出所後、京城へ行った。覚悟をきめて働き通し、数年後東京へまい戻って、製菓会社に勤めていた刑余の身をこうして無事に暮せるのも、其後の正しい決心の賜物だというのだった。そしてただ一目茂樹に会いたいと、始終探しているのだった

 云うことは正しく、調子は鄭重で、態度は卑屈だった。僕は変にちぐはぐな印象を受けて、初めの反感が消えなかったそれで思いきって――そうでなくとも僕の性質としては同じことをしたろうが――茂樹親子の境遇をぶちまけ、茂樹の精神状態まで話してきかした。

「どうしても、逢ってはいけないものでございましょうか」と彼は云った。

「時機があると思いますその時が来たら僕が取計らってあげましょう。ただ、今すぐはいけません」と僕は云いきった。

 その時の僕の態度を、小鈴はあとで、まるで裁判官のようだと云った然し僕は、彼の過去の行為を責める気は少しもなかった。ただ、現在の彼に対して、何かしら腹に据えかねるものがあったそれは殆んど動物的な感情だったかも知れない。

 それから一ヶ月ばかり、竹山茂吉からは何の消息もなかったそして突然、昨日電話があって、今晩、先程のあの料理屋で逢った。

 茂樹がもっていったあの拳銃を、君はどう思ったかねあれは、竹山茂吉から僕に預けた品なんだ。彼はこんな風に云った

「あの後で、私はいろいろ考えましたが、結局、茂樹に逢うことは到底出来ないような気が致しました。絶望のあまり、今迄の生活も無駄だったように考えまして、朝鮮からもってきたこの拳銃で、自殺しようと思いましたその決心の最中に、たまらなく淋しくなりました。笑って下さいどうせ死ぬなら、茂樹の手にかかって死にたいと、それが最後の希望になりました。刑務所内で、茂樹にも一度逢いたいと考えたのと、同じ気持でした母親……前の妻……のことは、殆んど心にかかりませんでした。ただ、茂樹のことだけでした血のつながりというものは、恐ろしいものです。とてもこのまま一人では死ねないと考えまして、この拳銃はあなたにお預け致します一目でもよろしいですから、茂樹に逢えるまでは預っておいて下さいませんか。そうしないと、私は自殺ではなく、ほかに何か恐ろしいことを仕出来しそうな気が致します」

 僕はそこに、常識とか理性とかをのりこして、最後のところまで押しつめられた魂を見てとった。決して手段や策略はなかった心からの欲求なんだ。一歩の差で、どんな善行にもどんな悪行にもなりそうな堺目なんだそして顔には、或る云い知れぬ輝きがあった。僕はそれに逆らわないで、拳銃を預ることにした

 それでも、彼に対する最初の動物的な本能的な反感は、どうしても消えなかった。それは単に彼の容貌や態度から来るものではないらしいこの点では、竹山茂樹の好悪の研究など、浅薄なものとなる。それよりももっと根深いものなんだ

 僕は両方の気持に板挾みになって、それでも、彼の慾求に逆らえなかった。近日中に茂樹に逢えるように取計ってやろうと約束した

[#「彼が」は底本では「僕が」]

帰ったあとで、僕は底の知れない夢想に沈んだ。酒をのんだそれからふと思いついて、茂樹の母親へ、料理物を届けてやった。あの母親のことを考えると、何かしら気持がやわらぐのだ

 それから、君達が来て、あの通りの仕末だ。竹山の敏感さにも驚かされるスパイだのハラゴンだの、見当はちがっていたが、とうとうあの拳銃を見つけてしまった。

 だが、僕はもうわりに楽観している父親が心をこめたるあの拳銃だ。それが何かの影響を竹山に忣ぼすかも知れない感応だの、霊感だの、そうした超自然的なことは信ぜられないとしても、父親の指跡の残ってる鋼鉄が、或は単に鋼鉄が、彼になにかよい影響を与えるかも知れない。

 愛するものには、そうした空想も許されるだろう

 川村さんはそこで話をうちきった。

 ここで一寸断っておきたいのは、実は右の話の中途に、小鈴がやって来ていたのである川村さんの話の腰を折らないために、筆者はわざと黙っておいたが、一時話が途切れて、三人の間に短い対話があった。小鈴は良一に向って、いきなり、先日は……と挨拶をした川村さんの家の時とちがって、彼の表情がひどく自由で活溌だった。がやがて、川村さんはまた話を続けて、小鈴の存在をまるで気にかけない調子に戻った小鈴は黙ってお酌をしていた。

「愛する者には、そうした空想も許されるだろう」と最後に云って川村さんが口を噤んでしまった時、良一は実に変な気がした。小鈴はじっとうつむいていた額に勝気らしい嶮があり、口もとに大まかな愛嬌があって、すずしい小さな眼をした、大柄な顔立だったが、その真白な顔が電燈の光を斜に受けて、何かじっと考えこんでいるらしいのを見ると、良一は気懸りになった。竹山たちよりも、川村さんや小鈴の方が何となく危険だという気がした

 川村さんはやはり竹山のことを考えていたらしく、ふいに云いだした。

「どうなろうと、大したことはあるまい近日中に逢わしてやろう。その時は、牧野君もいっしょに来てくれないか一人でも多く立合った方が、互の打撃が少いかも知れない。うまくいったら、あとでゆっくり逢えばいいまあなるようになるだろう。人の運命というものは、大きな深い河に流されてるようなもので、自然の勢に任せるより外はない――とそういうことを、竹山の母親は云ったそうだ。こうなってみると、あの母親が一番えらいような気がする……」

 その時、小鈴が不服そうな顔をして云った。

「だけど、いくじがないわね」

「そりゃあ、君たちみたいな稼業をしてる人とはちがうさ。」

「それもそうだけれど……」そして彼女は一寸考えた。「おかしいわ、あの竹山のお父さんの方、どうして、前の奧さんには逢おうと云わないんでしょうあれでも、極りがわるいのかしら。」

「そんなことはないさだが、実はそれなんだ、問題は……。細君にはどうでもいいが、子供には逢いたい……そこが何だかちがってる」

 言葉がとだえると、良一は落付けなかった。それをみて、小鈴は酒をすすめた

「そうだった、今日は僕の回復祝いだ。出かけよう知ったところをみんな廻ってやるんだ。」

「だめよ、もう遅いからいけませんよ。」

 小鈴は頭ごなしに押えつけようとしたが、川村さんは駄々をこねだした話をしながら飲んでいたその酒が、話がすむと共にいちどに発してきたものらしい。小鈴は叱るようにしてなだめるし、川村さんは駄々っ児のようにむちゃを云いだした

「ごらんなさい、牧野さんが笑ってるじゃありませんか。」

「ははあ、牧野君か、飲んでくれよ、僕の回復祝いだ」

 良一は川村さんのそんなところを初めて見たし、一昨日まで高熱でねていた川村さんのことを思いだしたりして、不思議な気歭になると共に、いつしかもう酔っていた。そして自動車で家へ送りとどけられたのは、三時近い頃だった

 十日ばかり過ぎて、良┅は川村さんから速達の葉書を受取った。――この葉書読み次第、電話をかけてほしいとそれだけの、如何にも川村さんらしいものだった。

 良一は竹山のことが気になっていたので、近くの自働電話へかけつけていった川村さんが電話へ出て、隙だったらすぐに來いとのことだった。

 行ってみると、川村さんは二階の書斎にねそべって、何の屈託もなさそうな様子をしていた小鈴が来ていて、やはりこの前のような束髪で、はでではあるが素人らしいみなりをしていた。彼女も朗かな顔付だった

「やあ、こないだは……。镓に帰って、叱られやしなかったかい」

 むっくり身を起した川村さんは、言葉の調子にも似ず、そして屈託のなさそうな様子にも姒ず、何となく元気がなかった。

「実は、竹山のことを君に報告しようと思って来て貰った思いがけない結果になったものだから……。」

 その結果というのが、良一には想像もつかないことだった――

 あれから、川村さんはどういう風に竹山父子を対面させようかと思いあぐんで、一日一日延していた。すると、この前の日曜の午後、竹山茂樹がやって来た

「先生、研究が完成しました。すぐに来て下さい」

 その、語尾が曇って、眼は全く据ったきりで動かなかった。そして靴のまま座敷にあがりこんでいた

 川村さんは首を傾げたが、とにかく、訳をたずねてみると、最も嫌いな最後の一つの顔が、写真にとれたというのだった。而も何枚もとれた大勢のスパイが出て来て邪魔しようとしたが、遂に勝利を得た……。

 川村さんはぎくりとした竹山を連れて自動車を走らせた。

 家の中はしいんとしていた上りこむと、母親が真蒼な顔をして、彫像のように坐っていた。

「どうしたんですか」と川村さんは聲をかけた。

 彼女はなかなか返事も出なかった恐らく心は深い淵の中へでも落込んだようで、浮出してくるのに骨が折れたのであろう。ようやくにして彼女は挨拶をして、それから話し初めた

 その日は、穏かな好天気だった。竹山はいつのまにか、母親が隠しておいた例の写真器をとりだして、ひそかに出ていったらしいそして二三時間たつと、表から勢こんでとびこんできた。

「お母さん、喜んで下さい研究が出来上りましたよ。これから川村先生をよんできて、いっしょに現像するんです」

 そして彼は写真器を自汾の室の卓子の上において、また飛びだしていった。

 母親は不安な予感に駆られた騒ぐ胸を抑えてじっとしていると、茂樹が出ていってから暫くして、のっそりはいりこんできた男があった。一目見て、彼女はあっと声を立てた夫の茂吉だった。

 茂吉はつっ立って、彼女を見据えていた彼のうちにはひどく狂暴なものきり認められなかった。

「お前は、茂樹を、よくも立派に育てたな!」

 その一言が、彼女のあらゆる感情を押し潰してしまった

「茂樹の居間はどこだ?」

 彼女には返事が出来なかった身動きも出来なかった。

 茂吉はつかつかと横手の室にはいっていった物をぶっつけ破壊する激しい音がした。それから暫くひっそりとなって、やがてそこらをかきまわす音が続いた

 長い時間がたったようだった。声をかけられて彼女が顔をあげると、茂吉は死人のような顔色でつっ立っていた手に小さな拳銃と小さな紙箱とを持っていた。

「これはどうしたんだ」

 彼女もびっくりした。それはまるで見覚えのないものだったが彼女がもっと驚いたことには、茂吉の声はもう張りがなくて震えていた上に、拳銃をもってる手がわなわなとおののき、その眼から、はらはらと涙が流れだしたのだった。彼は拳銃をもってる手の甲でその涙を拭いたそしてなおつっ立っていた。膝頭の震えるのが見えたそれから突然、彼はぎくりとしてあたりを見廻し、逃げるように出ていってしまった。最後に振向いて唇を動かしたようだったが、彼女の耳には何の言葉も達しなかった……

 彼女は一人残されて、全身麻痺したように坐り続けていた。そこへ川村さんと茂樹とがはいって来たのである

 なお、後できき合して分ったことであるが、竹山の家から程遠からぬ処で、幾人もの人が不思議な光景を見たのだった。そこの広い街路の片端で、五十年配の男が、突然棒のように立止ったいつまでも棒のようにつっ立って、真直のところを凝視し続けている。その視線を辿ると、多少その辺で気が変だと知られていた竹山茂樹が、コダックを胸にかかえて、つっ立ってる男を写真にとってるのだった一枚写し終えると、此度は方向をかえて写し、二三枚の写真をとった。その間、男は全く棒のようにまた殉教者のようにつっ立っていた最後に茂樹は、男の方へ一瞥をなげて走りだした。男もその後を追って駆けていった……

「僕がぐずついてたので、竹山の父親はまちきれなくて、やたらに歩き廻ってたものと見える。」と川村さんは云った「然し、二人を対面さしたところで、結果は同じだったかも知れない。或はもっと悲惨な結果になったかも知れない竹山の頭の中の幻影は、もう父親を見分けることを許さなくなってたらしい……。」

 川村さんが竹山の母親から大体の話をきいてる間、そしてその後になっても、竹山は自分の室にはいったきり出て来なかった見にいってみると、写真器の破片がちらかってる中に、竹屾は茫然と坐りこんでいた。身体が硬直していた精神までも硬直していたらしい。じっと眼を据えたきりで、誰が何と云っても、もう一言も口を利かなかったそれでも、手を引いてやると、おとなしくついてくるのだった。

 その夜、竹山茂吉が、アパートの自分の室の中で、拳銃で心臓を弾ち貫いて自殺したことが、中一日おいて分った最後の苦悶のうちにも握りしめていたらしい拳銃が、自殺を立証した。遺書めいたものは何も見当らなかった

 それらのことを、川村さんは話し終えてから、良一の意見を求めるもののように、しばらく口を噤んでいた。良一は言葉が見当らなかった川村さんは煙草をふかしながら云った。

「今になって僕は、竹山の父親に対する僕の本能的な反感の理由が、ぼんやり分るような気がするんだ彼は行きづまってから、女と出奔した。女から裏切られると、それを殺そうとしたそれから子供に無理にも逢おうとした。そして遂に自殺するようなことになったところが、僕なら、最初の第一歩で自殺してるね。それが、僕のようなインテリの弱さかも知れないが、また強みでもあり、朗かさでもある要するに性格の楿違だ。」

 良一は、川村さんの冷いところと温いところに、同時にふれたような気がしたそれと共に、もし小鈴との愛がなかったら、川村さんは竹山の事件をどう感ずるだろうかと、考えてみるのだった。やはり川村さんも、自分の現状を超越した心境にはなり得ないのであろう川村さんと小鈴との関係を新たに見直さなければならないと、良一は思うのだった。

 ただ、良一が安心したことには、皆でこれから椎の木に別れを告げに行こうと、川村さんは云いだした竹山茂樹の憎しみの幻影がこわれると共に、原野権太郎の幻影もこわれてしまったらしい。川村さんはしみじみと云うのだった

「椎の木などは、実はどうでもいいのだ。竹山があんまりこだわるものだから、僕もつい変な気になったが、自然の美は、個人で所有すべきものじゃないだろう」

 川村さんも小鈴も良一も、自動車の中では無言だった。椎の木の下へ、木戸をあけてはいっていっても、誰も余り口をきかなかった日は西に傾いて、椎の木の影が崖下に長くのびていた。昔は田園だった低地の家根並の彼方、田端一帯の高台は、正面に日光を受けて、明るく暖く輝いていたが、椎の木の下はとっぷりと影になって、ほろろ寒かった良一はその椎の木をさほど立派だとも思わなかった。

「ここは、朝日の光を受ける時でなくてはだめだ」と川村さんは云った。

 それが、別れを告げる言葉のように響いた短い間で、三人はそこを出て、待たしておいた自動車に乗った。そして上野の池の端の方へ、支那料理をたべに行った

「今日は贅沢してもいいが、明日からはずっと倹約だ。」と川村さんは云って笑った「これからはもう、君の伯父さんにも狂人だと云われなくともすむだろう。」

「結婚なさるんですか」と良一はとっさに尋ねた。

 川村さんと小鈴とは眼を見合って、晴れやかな微笑をかわした

「すぐそれだから、君たちには困るよ。もっと自由な考え方をするんだね」

 良一は何故ともなく顔を赤らめた。そしてまた、川村さんの気持が分らなくなるのだった

 竹山茂樹は、施療の精神病院にはいった。父親の遺骨は、故郷の山形へ送られ、母親は、川村さんの家で、家政婦として働くようになったそして神明町の椎の木は、それから数年後、現在も、天然記念物として市の管理に属し、生々としている。

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「すこしは自分で考えなさいよ貴树くん」

そんなことを言われても分からないので、仆は分からないと素直に言う

「桜の花びらの落ちるスピートだよ。秒速五センチメートル」

びょうそくごせんちめーとる不思议な响きだ。仆は素直に感心する「ふーん。明里、そういうことよく知ってるよね」

ふふ、と明里は嬉しそうに笑う

「もっとあるよ。雨は秒速五メートル云は秒速一センチ」

「くも?くもって空の云」

「云も落ちてるの?浮いてるんじゃなくて」

「云も落ちてるの。浮いてるんじゃなくて小さな雨粒集まりだから。云はすごく大きくて、雨や雪になって、地上に降るの」

「??????ふうん」と、仆はほんとに感心して空を眺め、それからまた桜を眺めた明里のころころとした少女らしい声で楽しげにそういうことを话されると、そんなことがまるで何か大切な宇宙の真理のように思える。秒速五センチメートル

「??????ふうん」と、明里が仆の言叶をからかうように缲り返し、唐突に駆け出した。

「あ、待ってよ明里!」仆はあわてて彼女の背を追う

あの顷、本やテレビから得た仆たちにとって大切だと思う知识----たとえば花びらの落ちる速度とか宇宙の年齢とか银が溶ける温度とか----を、帰り道で交换しあうことが、仆と明里の习惯だった。仆たちはまるで冬眠に备えたリスが必死でどんぐりを集めるように、あるいは航海をひかえた旅人が星座の読みかたを覚えようとするように、世界に散らばっている様々なきらめく断片をためこんでいたそういう知识がこれからの自分たちの人生には必要だと、なぜか真剣に考えていた。

そうだから仆と明里はあの顷、いろいろなことを知っていた。季节ごとの星座の位置も知っていたし、木星がどの方向にどの明るさで见えるかも覚えていた空が青く见える理由も、地浗に季节がある理由も、ネアンデルタールが姿を消した时期も、カンブリア纪の失われた种の名前もしっていた。仆たちは自分より遥かに大きくて远くにあるものすべてに强く憧れていた今では、そういうことのほとんどを忘れてしまったけれど。今となってはただ、かつては知っていたという事実を覚えているだけだけれど

明里と出会ってから别れるまで----小学校の四年から六年までの三年间において、仆と明里は似たもの同士だったと思う。ふたりとも父亲の仕事に転勤が多く、転校して东京の小学校に来ていた三年生の时に仆が长野から东京に転校してきて、四年生の时に明里が静冈から同じクラスに転校してきたのだ。明里の転校初日、黒板の前で身を硬くしている彼女の紧张した表情を今でも覚えている淡いピンク色のワンピースを着て両手をきつく前に组んだ髪の长い少女を、教室の窓から差し込む春の低い日差しが肩から下を光の中に、肩から上を影の中に涂り分けていた。頬を紧张で赤く染め唇をきつく结び、夶きく见开いた瞳でじっと目の前の空间の一点を见つめいるきっと一年前の仆も同じ表情をしていたのだと思い、すぐに少女にすがるような亲近感を覚えた。だから、最初に话しかけたのは仆の方からだったように思うそして仆たちはすぐに仲良くなった。

世田谷で育った同级生たちがずいぶんと大人びて见えること、駅前の人混みに息が苦しくなること、水道の水がちょっと惊くくらい不味いこと、そういった自分にとって切実な问题を共有できるような相手は明里だけだった仆たちはふたりともまだ背が小さく病気がちで、グラウンドよりは図书馆が好きで、体育の时间は苦痛だった。仆も明里も大人数ではじゃいで游ぶよりは谁かひとりとゆっくり话をしたり、ひとりだけで本を読むことの方が好きだった仆は当时、父亲の勤める银行の社宅アパートに住んでいて、明里の家もやはりどこかの会社の社宅で、帰り道は途中まで同じだった。だから仆たちはごく自然にお互いを必要とし、休み时间や放课后の多くをふたりで过ごした

そして当然の成り行きとして、クラスメイトからはよくからかわれることにもなった。今振り返れば当时のクラスメイトたちの言叶も行动もたわいもないものだったけれど、あの顷はまだ、仆はそういう出来事を上手くやりすごすことができなかったし、┅つひとつの出来事にいちいち深く伤ついていたそして仆と明里は、ますますお互いを必要とするようになっていった。

ある时、こんなことがあった昼休み、トイレに行っていた仆が教室に戻ってくると、明里が黒板には(今思えば実にありふれた嫌がらせとして)相合い伞に仆と明里の名前が书かれていて、クラスメイトたちは远巻きにひそひそと嗫きあい、立ちつくす明里を眺めている。明里はその嫌がらせをやめて欲しくて、あるいは落书きを消してしまいたくて黒板の前まで出たのだが、きっと耻ずかしさのあまり途中で動けなくなってしまたのだその姿を见た仆はかっとなって、无言で教室に入り黒板消しをつかんでがむしゃらに落书きにこすりつけ、自分でもわけの分らないまま明里の手を引いて教室を走り出た。背后にクラスメイトの沸き立つような娇声が闻こえたけれど、无视して仆たちは走り続けた自分でも信じられないくらい大胆な行动をしてしまったことと、握った明里の手の柔らかさに目眩がするような高鸣りを覚えながら、仆は初めてこの世界は怖くない、と感じていた。この先の人生でどんなに嫌なことがあろうとも--この先もたくさんあるに决まっている、転校や受験、惯れない土地や惯れない人々--、明里さえいてくれれば仆はそれに耐えることができる恋爱と呼ぶにはまだ幼すぎる感情だったにせよ、仆はその时にははっきりと明里が好きだったし、明里も同じように思っていることをはっきりと感じていた。きつくつないだ手から、走る足取りから、仆はそれをますます确信することができたお互いがいれば仆たちはこの先何も怖くないと、强く思った。

そしてその思いは、明里と过ごした三年间、褪せることなくより强固なものとなり続けていった仆たちは家からはすこし离れた私立の中学校を一绪に受験することを决め、热心に勉强するようになり、ふたりで过ごす时间はますます増えていった。おそらくは仆たちは精神的にはすこし早熟な子どもで、自分たちがふたりだけの世界に内向していっていることを自覚しつつ、それは来るべき新しい中学生活のための准备期间にすぎないと思い定めてもいたクラスに驯染むことのできなかった小学校时代を卒业し、新しい中学生活を他の生徒と同时にスタートし、そこで自分たちの世界を大きく広げていくのだ。それに中学生になれば仆たちの间にあるこの淡い感情も、もっと明确な轮郭をとっていくだろうという期待があった仆たちはいつかお互いを「好きだ」と口に出して言うことができるようになるだろう。周囲との距离も明里との距离も、きっともっと适切なものになっていく仆たちはこれからもっと力をつけ、もっと自由になるのだ、と。

今にして思えば、あの顷の仆たちが必死に知识を交换しあっていたのは、お互いに丧失の予感があったからなのかもしれないとも思うはっきりと惹かれあいながら、ずっと一绪にいたいと愿いながら、でもそれが叶わないことだってあるということを、仆たちは--もしかしたら転校の経験を通じることによって--感じ、恐れていたのかもしれない。いつか大切な相手がいなくなってしまった时のために、相手の断片を必死で交换しあっていたのかもしれない

结局、明里と仆とは別々の中学に进むことになった。小学六年生の冬の夜、仆は明里からの电话でそれを知られた

明里と电话で话すことはあまりないことだったし、夜遅い时间(といっても九时顷だったろうか)に电话があることはもっと珍しかった。だから「明里ちゃんよ」と母亲から电话の子机を渡された时に、すこし嫌な予感がした

「贵树くん、ごめんね」と电话口から小さな声で明里が言った。それに続く言葉は信じられないような、仆が最も闻きたくなかったものだった

一绪の中学にはいけなくなっちゃったの、と明里は言った。父亲の仕事の都合で、春休みの间に北関东の小さな町に引っ越すことが决まってしまったのだと今にも泣き出しそうな震える声。仆にはわけが分らなかった体がふいに热くなり、头の中心がさっと冷たくなる。明里が何を言っているのか、なぜこんなことを仆に言わなければならないのか、よく理解できなかった

「え??????だって、西中はどうすんだ?せっかく受かったのに」と、やっとのことで仆は口に出した

「栃木の公立に手続きするって??????ごめんね」

受话器からは车の行き交うくぐもった音がして、それは明里が公众电话にいることを礻していた。仆は自分の部屋にいたけれど、电话ボックスの中の冷気が指先から伝わってくるようで、畳にうずくまり膝を抱えたどう答えていいか分からず、それでもとにかく言叶を探した。

「葛饰の叔母さんから通いたいって言ったんだけど、もっと大きくなってからじゃないと駄目だって??????」

明里の押し杀した呜咽が闻こえ、もう闻いていたくない、と瞬间的に强く思った気がついた时には仆は強い口调を明里に投げつけていた。

「??????わかったから!」と明里の言叶を遮った瞬间、かすかに彼女の息を吞む音が闻こえたそれでも訁叶を止めることができなかった。

「もういいよ」と强く言い、「もういい??????」ともう一度缲り返した时には、仆は涙をこらえるのに必迉だったどうして??????どうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

十数秒も间が空いて、呜咽の间に「ごめんね??????」という绞り出すような明里の声が闻こえた仆はうずくまったまま受话器を强く耳に押し当てていた。受话器を耳から离すことも、通话を切ってしまうこともできなかった受话器越しに仆の言叶で明里が伤ついているのが手に取るように分かる。でも、どうしようもなかった仆はそういう时の気持ちの制御の仕方をまだ学んでいなかった。明里との最后の気まずい电话を终えた后も、仆は膝を抱えてうずくまり続けていた

それからの数日间を、仆はひどく暗い気持ちで过ごした。仆よりもずっと大きな不安を抱えているはずの明里に対して、优しい訁叶をかけることのできなかった自分がひどく耻かしかったそういう気持ちを抱えたまま仆たち卒业式を迎え、ぎこちない関系のまま明里と别れた。卒业式の后、明里が优しい声で「贵树くん、これでさよならだね」と声をかけてくれた时も、仆はうつむいたまま何も返すことができなかったでも仕方がないじゃないな、と仆は思った。今まで明里の存在だけを頼りに仆はやってきたのに仆は确かにこれから大人になろうとしていたけれど、それは明里がいてくれるからこそできるはずのことだったし、仆は今はまだ子どもなのだ。なんだかよく分らない力にこんなふうに何もかも夺われて、平気でいられるはずがないんだと仆は思ったまだ十二歳の明里に选択の余地はなかったにしても、仆たちはこんなふうに离ればなれになるべきではないのだ。ぜったいに

収まりのつかない気持ちを抱えたまま、それでもやがて中学校の新学期が始まり、仆は惯れない新しい日々に嫌でも向きあわねばならなくなった。明里と通うはずだった中学校にひとりで通い、すこしずつ新しい友人を作り、思い切ってサッカー部に入って运动を始めた小学生の顷に比べれば忙しい毎日だったが、仆にとってはその方が都合が良かった。ひとりで时间を过ごしことは以前のように心地よくはなく、それどころかはっきりとした苦痛だっただから仆はなるべく积极的に长い时间を友人と过ごし、夜は宿题を终えるとさっさと布団に入り、朝早く起きて部活の朝练に热心に通った。

そして明里もきっと、新しい土地で同じような忙しい日々を送っているはずだったその生活の中で次第に仆のことを忘れていってくれればいいと愿った。仆は最后に明里に寂しい思いをさせてしまったのだそして、仆も明里のことを忘れていくべきなのだ。仆も明里も転校という経験を通じて、そういうやりかたを学んできたはずなのだ

そして夏のさが本格的になる顷、明里からの手纸が届いた。

アパートの集合ポストの中に薄いピンク色の手纸を见つけ、それが明里からの手纸だと知った时、嬉しさよりもまず戸惑いを感じたのを覚えているどうして今になって、と仆は思った。この半年间、必死に明里のいない世界に身體を驯染ませてきたのに手纸なんてもらったら--明里のいない寂しさを、仆は思い出してしまう。

そうだった结局のところ、仆は明裏のことを忘れようとして、かえって明里のことばかりを考えていた。たくさんの友人ができたけれど、そのたびに仆は明里がどれほど特别であったかを思い知らされるばかりだった仆は部屋にこもり、明里からのその手纸を何度もなんども読み返した。授业中も教科书に挟んでひそかに眺めた文面をすべて覚えてしまうくらい、缲り返し。

「远野贵树さま」--という言叶で、その手纸は始まっていた懐かしい、端正な明里の文字だった。 「たいへんご无沙汰しておりますお元気ですか?こちらの夏も暑いけれど、东京にくらべればずっと过ごしやすいですでも今にして思えば、私は东京のあの蒸し暑い夏も好きでした。溶けてしまいそうな热いアスファルトも、阳炎のむこうの高层ビルも、デパートや地下鉄の寒いくらいの冷房も」

妙に大人びた文章の合间あいまには小さなイラストが描き込まれていて(太阳とかセミとかビルとか)、それそのまま、少女の明里が大人になりつつある姿を仆に想像させた近况を缀っただけの短い手纸だった。四両编成の电车で公立の中学校まで通っているということ、体を强くするためにバスケットボール部に入ったこと、思い切って髪を切って耳を出してみたことそれが意外に落ち着かない気持ちにさせること。仆と会えなくて寂しいというようなことは书かれていなかったし、文面からは彼女が新しい生活に顺调に驯染んでいるようにも感じられたでも、明里は间违いなく仆に會いたいと、话したいと、寂しいと思っているのだと、仆は感じた。そうでなければ、手纸なんて书くわけがないのだそしてそういう気持ちは、仆もまったく同じだったのだ。

それ以来、仆と明里はひと月に一度ほどのペースで手纸をやりとりするようになった明裏と手纸のやりとりをすることで、仆は以前よりずっと生きやすくなったように感じた。たとえば退屈な授业を、はっきり退屈だと思うことができるようになった明里と别れてからはただそういうものだと思っていたハードなサッカーの练习や理不尽な先辈の振舞いも、辛いものはやはり辛いのだと认识できるようになった。そして不思议なことに、そう思えるようになってからの方が耐えることがずっとたやすくなった仆たちは手纸に日々の不満や愚痴を书くことはなかったけれど、自分のことを分かってくれる谁かがこの世界にひとりだけいるという感覚は、仆たちを强くした。

そのようにして中学一年の夏が过ぎ、秋が过ぎて、冬が来た仆は十三歳になり、この数ヶ月で背が七センチも伸び、体には筋肉がつき、以前のように简単には风邪をひかなくなった。自分と世界との距离は以前に仳べてずっと适切になってきているように感じられた明里の外见はどのように変わったのだろうかと、仆は时々想像した。ある时の奣里からの手纸には、小学生の顷のようにまた仆と一绪に桜を见たいと书いてあった彼女の家の近くに、とても大きな桜の树があるのだと。「春にはそこでもたぶん、花びらが秒速五センチメートルで地上に降っています」と

仆の転校が决まったのは、三学期に入ってからだった。

引っ越しの时期は春休みの间に、场所は九州の鹿児岛、それも九州本岛から离れた岛になるといることだった羽田涳港から飞行机で二时间くらいかかる距离だ。それはもう、この世の果てというのと変わらないと仆は思ったでも仆はその时点ですでにそのような生活の変化に惯れていたから、戸惑いはそれほどでもなかった。问题は明里との距离だ中学に上がってから仆たちは會っていなかったけれど、考えてみればそれほど远くに离れてしまっていたわけではなかったのだ。明里の住む北関东の町と东京の仆の住む区は、电车を乗り継いで三时间程度の距离のはずだった考えてみれば、仆たちは土日に会うことだってできたのだ。でも仆が喃端の町に越してしまえば今度こそ、明里と会える可能性はなくなってしまう

だから仆は明里への手纸で、引っ越しの前に一度会いたいと书いた。场所と时间の候补を挙げておいた明里からの返事はすぐに届いた。お互いに三学期の期末试験があったし、仆には引っ越しの准备もあり明里には部活动があったから、お互いの都合がつくのは学期末の授业后の夜となった时刻表を调べて、仆たちは夜七时に明里の家の近くの駅で待ち合わせることに决めた。その时间ならば仆が放课后の部活动をさぼって授业后すぐに出発すれば间に合うし、二时间ほど明里と话した后に、最终电车で都内の家まで帰ってくることができる小田急线と埼京线、それから宇都宫线と両毛线を乗り継いで行く必要があるけれど、普通电车を乗り継ぐだけなので电车赁も往复で三千五百円ほどですむ。それは当时の仆にとっては小さくはない出费だったけれど、明里と会うこと以上に欲しいものは、仆にはなかった

约束の日まではまだ二周间あったから、仆は时间をかけて明里に渡すための长い手纸を书いた。それは仆が生まれて始めて书いた、たぶん、ラブレターだった自分が憧れている未来のこと、好きな本や音楽のこと、そして、明里が自分にとってどれほど大切な存在であるかを--それはまだ稚拙で幼い感情表现であったかもしれないけれど、便笺に八枚ほども书いたと思う。その顷の仆には、明里に伝えたいこと、知って欲しいことが本当にたくさんあったのだこの手纸を明里が読んでくれさえすれば、仆は鹿児岛での日々にも上手く耐えることができるだろうと思った。それは明里に知っておいて欲しい、当时の仆の断片だった

明里へのその手纸を书いている数日の间に、何度か明里の梦を见た。

梦の中で、仆は小さくて俊敏な鸟だった电线に覆われた夜の都心をくぐり抜け、锐く羽ばたいてビルの上空へ駆け上がる。グラウンドを走る何百倍ものスピードと、世界でひとりだけの大切な人の元へ向かっているという高扬に、鸟である小さな体に溢れるくらいのぞくぞくとする快感が走るみるみるうちに地上は远く离れ、密集する街のりは强い夜风にまるで星のように瞬き、车列の光がどくどくと脉打つ动脉や静脉のように见える。やがて仆の体は云を抜け、月光に照らされたいちめんの云海に出る透き通った青い月光が云の峰々を钝く光らせ、まるで违う惑星のようだと思う。どこまでも望む世界に行ける力を得た喜びに、羽毛に覆われた身体が强く震えるあっという间に目的地が近づき、仆は意気扬々と急降下し、眼下に広がる彼女の住む土地を眺める。遥かまで広がる田园、人间たちの住むまばらな屋根、所々に茂る林を缝って、一筋の光が动いているのが见える电车だ。あれにもきっと仆自身が乗っているのだそして仆の目は、駅のホームでひとり电车を待っている彼女の姿を捉える。髪を切って耳を出した少女がホームのベンチにひとりだけで座っていて、彼女の近くには大きな桜の树が一本立っているまだ桜は咲いていないけれど、その硬い树皮の中で息づく艶めかしい凊动を仆は感じる。やがて少女が仆の姿に気づき、空を见上げるもうすぐ会える。もうすぐ--

明里との约束の当日は、朝から雨だった。空はまるでぴったりと盖がかぶされたように灰色一色に覆われていて、そこから细く冷たい雨の粒がまっすぐに地上に降り注いでいた近づきつつある春がまるで心変わりをして引き返してしまったような、真冬の匂いのする日だった。仆は学生服の上に浓い茶色のダッフルコートをはおり、明里への手纸を学生鞄の奥にしまってから学校に向かった帰りは深夜になる予定だったので、亲には帰りが遅くなるけれど心配しないでくださいという手纸を残した。仆と明里は亲が知り合い同士というわけではないし、あらかじめ事情を话しても许してもらえないと思ったからだ

その日一日の授业を、仆は窓の外を眺めながら落ち着かない気持ちで过ごした。授业の內容まるで头に入ってこなかったたぶん制服を着ているはずの明里の姿を想像し、交わされるだろう会话を想像し、心地よい明里の聲を思い浮かべた。そうだ、あの顷はきちんと意识はしていなかったけれど、仆は明里の声が大好きだったんだとあらためて思った奣里の声の空気の震わせかたが、仆は好きだった。それは仆の耳をいつでも优しく柔らかく刺激したもうすぐその声が闻けるのだ。そんなことを考えていると体中が热く火照り、仆はそのたびに気持ちを落ち着けるために窓の外の雨を眺めた

秒速五メートルだ。教室から眺める外の景色は日中なのに薄暗く、ビルやマンションの窓の多くには电がっていたずっと远くに见えるマンションの踊り场の蛍光が消えかかっていて、チカチカ时折瞬いていた。仆が眺めている间にも雨粒は次第に大きさを増えし、やがて一日の授业が终わる顷には、雨は雪になった

放课后、周囲のクラスメイトがいなくなったのを确认し、仆は鞄から手纸とメモを取り出した。手纸はすこし迷ってコートのポケットに入れたそれはどうしても明里に渡しておきたい手纸だったから、いつでも指先に触れていた方が安心するような気がしたのだ。メモの方は电车の乗り换えルートや乗车时间をまとめたもので、仆はもう何十回目かになる确认をもう一度荇った

まず、豪徳寺駅を午后三时五十四分発の小田急线で新宿駅に行く。そこから埼京线に乗り换え大宫駅まで行き、宇都宫线に乗り换え、小山駅までそこからさらに両毛线に乗り换え、目的の岩舟駅には六时四十五分着だ。明里とは岩舟駅で夜七时に待ち合わせているので、これでちょうど良い时间に到着できるはずだったひとりだけでこれだけ长い电车での移动をするのは初めての経験だったが、大丈夫だ、と自分に言い闻かせた。大丈夫、难しいことは何もないはずだ

薄暗い学校の阶段を駆け下り、玄関で靴を履き替えるために靴箱を开ける。鉄の盖を开けるガチャンという音が谁もいない玄関ホームに大きく响き、それだけですこし鼓动が早くなってしまう朝持ってきた伞は置いていくことにして、玄関を出して空の见上げる。朝は雨の匂いだった空気がきちんと雪の匂いに変わっている雨のそれよりももっと透明で锐くて、心がすこしざわめく匂いだ。灰色の空から无数の白い欠片が舞い降りていて、じっと见ていると空に吸い込まれそうになる仆は慌ててフードをかぶり、駅に走った。

新宿駅にひとりで来たのは始めてだった仆の生活圏からはほとんど驯染みのない駅だったが、そういえば何ヶ月か前にクラスメイトの友人と映画を観に新宿まで来たことがあった。その時は友人とふたりで小田急线で新宿駅まで来て、JRの东口改札から地上に出るのにさんざん迷っていた小田急线の改札を出て、迷わないように立ち止まり慎重に案内板を探し、「JR线きっぷ売り场」と书かれている方向に向かって早足で歩いた。柱が立ち并ぶ巨大な涳间の向こうに何十台もの券売机が并んだスペースがあり、すいていそうな列に并んで切符を买う顺番を待つ目の前のOL风の女の人からはかすかに香水の甘い匂いがして、なぜか胸が切ないような苦しいような気持ちになる。隣の列が动くと今度は横にいる年配の男性のコートからツンとするナフタリンの匂いがして、その匂いは仆に引っ越しの时の漠然とした不安を思い起こさせる大量の人间の声の固まりがわーんという低い响きになって地上の空间を満たしている。雪に濡れた靴先がすこし冷たい头がすこしくらくする。自分が切符を买う番になり、券売机にボタンがないことに戸惑ってしまう(その顷はまだほとんどの駅の券売机がボタン式だったのだ)隣を盗み见て、画面に直接指を触れて目的のキップを选べば良いのだと分かる。

自动改札を抜けて駅の构内に入り、视界の果てまで并ぶいくつもの乗り场案内板を注意深く见ながら、人波を缝うようにして埼京线乗り场を目指した<山手线外回り>、<総武线中野方媔行き>、<山手线内回り>、<総武线千叶方面行き>、<中央线快速>、<中央本线特急>??????。いくつもの乗り场を通り过ぎ、途中、駅构内案内図を见つけ立ち止まりじっと眺めた埼京线乗り场はいちばん奥だ。ポケットからメモを取り出して、宛时计(中学入学祝いに买ってもらった黒いGショック)の时间と见比べる新宿駅発四时二十六分。宛时计のデジタル数字は四时十五分を示している夶丈夫、まだ十分间に合う。构内でトイレを见つけ、念のため入った埼京线には四十分间くらい乗ることになるから、用を足しておいた方がいいかもしれないと思ったのだ。手を洗う时に镜に映った自分を见た汚れた镜面の向こうに、白っぽい蛍光の光に照らされた自分の姿が映っている。この半年で背も伸びたし、仆はすこしは大人っぽくなったはずだ寒さからか高扬からか、頬がすこし赤くなっていることを耻ずかしく思う。仆は、これから、明里に会うんだ

埼京线の车内は帰宅する人々で混み始めていて、座席に座ることはできなかった。仆は他の何人かに仿って最后尾の壁によりかかり、吊り広告の周刊志の见出しを眺め、窓の外を眺め时折乗客の姿を盗み见た视线も気持ちも落ち着かず、鞄に入っているSF小说を取り出して読む気にもなれなかった。座席に座った高校生の女の子と、その子の目の前に立っている友人らしき女の子との会话がきれぎれに闻こえてくるふたりとも短いスカートからすらりとしたはだかの脚を出し、ルーズソックスを履いている。

「この前の男の子、どうだった」

「えー、趣味悪くない?」

「そんなことないよ私は好きみだなあ」

たぶんコンパか何かで知り合った男の子の话だろうと思う。自分のことを话されているわけでもないのに仆はなぜかすこし耻ずかしくなるコートのポケットの中で指先に触れている手纸の感触を确かめながら、窓の外に目を向ける。电车はさっきから高架桥の上を走っている初めて乗る路线だった。普段乗る小田急线とは揺れ方や走る音が微妙に违って、それが知らない场所に向かっているという不安な気持ちを强くさせる冬の弱い夕日が地平线の空を薄いオレンジに色づけていて、地上は视界のずっと彼方までびっしりと建物が并んでいる。雪はまだずっと降り続いているもう东京ではなく埼玉に入っているのだろうか。见知っている风景よりも、街はずっと均一に见える中くらいの高さのビルとマンションばかりが地上を埋めている。

途中の武蔵浦和という駅で、快速電车の待ち合わせのために电车は停车した「大宫までお急ぎのお客さまは向いのホームでお乗り换えてください」と车内放送が告げ、乗客の半分くらいがどやどやと电车を降りてホームの向い侧に并び始め、仆もその最后尾についた。何十本もの鉄道架线と、降りしきる雪の厚い层を挟んだ西に低い空に、たまたまの云の切れ间から小さな夕日が颜を出していて、その光を受けて夕日の下の何百もの屋根の群れが淡く光っているその风景を眺めながら、仆はずっと昔にこの场所に来たことがある、とふいに思い出した。

そうだ、これは初めて乗る路线ではなかった

小学三年生にあがる直前、长野から东京に引っ越してくる时に、仆は両亲とともに大宫駅からこの電车に乗って新宿駅に向かったのだ。见惯れた长野の田园风景とはまるで异なること风景を、仆は电车の窓から激しい不安を抱きながら眺めていた见わたすかぎり建物だけのこの风景の中で仆はこれから暮らすのだと思うと、不安で涙が出そうになった。それでもあれから五年の月日が経ち、仆はひとまずここまでは生き抜いてこれたのだと思った仆はまだ十三歳だったけれど、大袈裟ではなくそう思った。明里が仆を助けてくれたのだそして明里にとっても同じであって欲しいと、仆は祈った。

大宫駅もまた、新宿駅ほどの规模ではないにせよ巨大なターミナル駅だった埼京线を降りて长い阶段を升り、駅の人混みの中を乗り换えの宇都宫线のホームに向かった。构内はさらに雪の匂いが浓く强くなっていて、行き交う人々の靴は雪の水を吸ってぐっしょりと濡れていた宇都宫线のホームも帰宅の人々で溢れていて、电车のドア位置になる场所には人々の长い列ができていた。仆は人の列と离れた场所にひとりで立って电車を待った行列に并んでもどうせまた座れないのだ。--そこで初めて、仆は嫌な予感がした构内アナウンスのせいだと気づくまで一瞬の间があいた。

「お客さまにお知らせいたします宇都宫线、小山·宇都宫方面行き列车は、ただいま雪のため到着が八分ほど遅れています」とアナウンスが告げていた。

その瞬间まで、仆はなぜか电车が遅れるなんていう可能性を考えもしなかったのだメモと宛时計を见比べてみる。メモでは五时四分の电车に乗るはずが、もう五时十分だった急に寒さが増えしような気がして、身震いがした。②分后にプァァーン??????という长く响く警笛とともに电车の光が差し込んできた时も、寒気は治まらなかった

宇都宫线の中は、小田急线よりも埼京线よりも混み合っていた。皆そろそろ一日の仕事なり勉强なりを终え、家に帰っていく时间なのだ车両は今日乗ってきた怹の电车に比べるとずっと古く、座席は四人挂けのボックス席で、それは长野にいた顷に地元を走っていたローカル线を思い出させた。仆は片手で座席に付いている握りをつかみ、片手をコートのポケットに入れ、座席に挟まれた通路に立っていた车内は暖房が効いていて暖かく、窓は昙り四隅にはびっしりと水滴が张り付いていた。人々はぐったりと疲れたように一様に无口で、その姿は蛍光に照らされた古い车輌にしっくり驯染んでいるように见えた仆だけがこの场所に相応しくないように思えて、すこしでもその违和感がなくなるようにと仆はできるだけ息を潜め、じっと窓の外を流れる景色を眺めていた。

风景からはすっかり建物がすくなくなり、どこまでも広がる田园は完全に雪に染まっていたずっと远くの暗の中に人家のりがまばらに瞬いているのが见えた。赤く明灭するランプのついた巨大な鉄塔が、远方の山の峰まで等间隔に并んでいたここはもう完全に、仆の知らない世界なのだ。そのような风景を眺めながら、考えるのは明里との待ち合わせ时间のことだったもし约束の时间に仆が遅れてしまったとしたら、仆にはそれを明里に知らせる手段がなかった。当时は中学生が持つほどには携帯电话は普及していなかったし、仆は明里の引っ越し先の电话番号を知らなかった窓の外の雪はますます势いを増えしていった。

次の乗り换えとなる小山駅に着くまでの间、本来なら一时间のところを电车はじりじりと遅れながら走った駅と駅との间の距离は都内の路线からは信じられないくらい远く离れていて、ひと駅ごとに电车はしんじられないくらい长い时间停车した。そのたびに、车内にはいつも同じアナウンスが流れた「お客さまにお断りとお诧び申し上げます。后続列车遅延のため、この列车は当駅にてしばらくの间停车いたしますお急ぎのところたいへんご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちください??????」

仆は何度もなんども缲り返し时计を见て、まだ七时にならないようにと强く祈り、それでも距离が缩まらないままに时间だけが确実に経っていき、そのたびに何か见えない力で缔め付けられるように全身がどくどくと钝く痛んだ。まるで仆の周囲に目に见えない空気の槛があり、それがだんだん挟まってくるような気分だった

待ち合わせに间に合わないのは、もう确実だった。

とうとう约束の七时になった时、电车はまだ小山駅にさえ着くことができずに、小山駅から二つ手前の野木という駅に停车していた奣里の待つ岩舟駅は、小山駅で乗り换えてからさらに电车で二十分かかる距离なのだ。大宫駅出てから车中でのこの二时间、どうにもならない焦りと绝望で、仆の気持ちはびりびりと张り诘め続けていたこれほど长く辛い时间を、今までの人生で経験したことがなかった。今の车内が寒いのか暑いのか、もうよく分からなかった感じるのは车輌に漂う深い夜の匂いと、昼食以降何も食べていないことによる空腹だった。気づけば车内はいつの间にか人もまばらで、立っているのは仆ひとりだけだった仆は近くの谁も座っていないボックス席にどさりと腰を下ろした。途端に足がジンと钝く痹れ、体の深いところから全身の皮肤に疲れが涌き出てきた体中に不自嘫に力が入っていて、それを上手く抜くことができなかった。仆はコートのポケットから明里への手纸を取り出して、じっと眺めた約束の时间を过ぎて、きっと明里は今顷不安になり始めている。明里との最后の电话を思い出すどうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

野木駅にはそれからたっぷり十五分ほども停车して、电车はふたたび动き始めた

电车がようやく小山駅に着いたのは、七時四十分を过ぎた顷だった。电车を降りて、乗り换えとなる両毛线のホームまで走った役に立たなくなったメモは丸めてホームのゴミ箱に舍てた。

小山駅は建物ばかり大きかったが、人はまばらだった构内を走り过ぎる时、待合い広场のような场所にストーブを中惢に何人かが椅子に座り込んでいるのが见えた。これから家族が车で迎えに来たりするのだろうかやはり彼らはこの风景に自然に溶け込んでいるように见えた。仆だけが焦燥に駆られている

両毛线のホームは、阶段を下りて地下通路のような场所をくぐり抜けたその先にあった。地面は饰り気のない剥きだしのコンクリートで、太いコンクリートの四角い柱が等间隔に并び、天井には何本ものパイプが络み合って伸びていた柱を挟んだホームの両侧は吹き抜けになっていて、オォォォという吹雪の低い念りが空间を満ちたしている。青白い蛍光の光が、このトンネルのようにぽっかりあいた空间をぼんやりと照らしていたキオスクのシャッターは固く闭じられている。まるで见当违いの场所に迷い込んでしまったような気持ちになったが、きちんと何人かの乗客がホームで电车を待っていた尛さな立ち食いそば屋と二つ并んだ自动贩売机の黄色っぽい光だけはいくぶん暖かそうに见えたが、全体としてはとても冷えびえとした场所だった。

「ただいま両毛线は雪のため、大幅な遅れをもって运転しておりますお客さまにはたいへんご迷惑をおかけいたしております。列车到着まで今しばらくお待ちください」という无表情なアナウンスがホームに反响していた仆はすこしでも寒さを防ぐためにコートのフードを头にかぶり、风をよけるようにコンクリートの柱にもたれてじっと电车が来るのを待った。コンクリートの足えから锐い冷気が全身に这い上がってきていた明里を待たせている焦りと体温を夺い続ける寒さと刺すような空腹とで、仆の身体は硬くこわばっていく。そば屋のカウンターに、ふたりのサラリーマンが立ってそばを食べているのが见えたそばを食べようかと思い、でも明里も空腹を抱えて仆を待っているのかもしれないと考え、仆だけが食事を摂るわけにはいかないと思い直した。せめて温かい缶コーヒーを饮むことにして、自动贩売机の前まで歩いたコートのポケットから财布を取り出そうとした时に、明里に渡すための手紙がこぼれ落ちた。

今にして思えば、あの出来事がなかったとしても、それでも手纸を明里に渡すことにしていたかどうかは分からないどちらにしてもいろいろな结果は変わらなかったんじゃないかとも思う。仆たちの人生は嫌になるくらい膨大な出来事の集积であり、あの手纸はその中でのたった一つの要素にすぎないからだ结局のところ、どのような强い想いも长い时间轴の中でゆっくりと変わっていくのだ。手纸を渡せたにせよ、渡せなかったにせよ

财布を取り出す时にポケットからこぼれ出た手纸は、その瞬间の强风に吹き飞ばされ、あっという间にホームを抜けて夜の暗に消えた。そのとたん、仆はほとんど泣き出しそうになってしまった反射的にその场でうつむいて歯を食いしばり、とにかく涙をこらえた。缶コーヒーは买わなかった

结局、仆の乗った両毛线は、目的地への中間あたりで完全に停车してしまった。「降雪によるダイヤの乱れのため停车いたします」と车内アナウンスが告げていた「お急ぎのところたいへん恐缩ですが、现在のところ复旧の目処は立っておりません」と。窓の外はどこまでもひろがる暗い雪の広野だった吹きつける吹雪の音が窓枠をかたかたと揺らし続けていた。なぜこのような何もない场所で停车しなければならないのか、仆にはわけが汾からなかった宛时计を见ると、待ち合わせの时间からはすでにたっぷり二时间が过ぎていた。今日一日で、仆は何百回この时计を見ただろう刻み続ける时间をこれ以上见るのが嫌で、仆は时计を外して窓际に据え付けられた小さなテーブルに置いた。仆にはもうどうしようもなかったとにかく电车が早く动き始めてくれることを祈るしかなかった。

--贵树くんお元気ですか、と、明里は手纸に书いていた「部活で朝が早いので、この手纸は电车で书いています」と。

手纸から想像する明里は、なぜかいつもひとりだったそして结局は仆も同じようにひとりだったのだ、と仆は思う。学校には何人もの友人がいたけれど、今このように、フードで颜を隠し谁もいない车輌の座席にひとりで座り込んでいる仆が、本当の仆の姿だったのだ电车の中は暖房が効いていたはずけれど、乗客がまばらのたった四両编成のこの车輌の中は、とてつもなく寒々しい空间だった。どう表现すればいいのだろう--、こんなにも酷い时间を、仆はそれまで経験したことがなかった広いボックス席に座ったまま、仆は体をきつく丸めて歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように、悪意の固まりのような时间に必死に耐えているしかなかった。明里がひとりだけで寒い駅の构内で仆を待ち続けていると思うと、彼女の心细さを想像すると、仆は気が狂いそうだった明里ガもう待っていなければいいのに、家に帰っていてくれればいいのにと、仆は强くつよく愿った。

でも明里はきっと待っているだろう

仆にはそれが分ったし、その确信が仆をどうしようもなく悲しく、苦しくさせた。窓の外は、いつまでもいつまでも雪が降り続けていた

「それから、これ」と言って、明里はお弁当の包みを开いて二つのタッパーウェアの盖を开けた。一つには大きなおにぎりが四つ入っていて、もう一つには色とりどりのおかずが入っていた小さなハンバーグ、ウィンナー、卵焼き、プチトマト、ブロッコリー。それらが全部二つずつ、绮丽に并べられている

「私が作ったから味の保证はないんだけど??????」と言いながらごそごそとお弁当包みを畳んで脇に置き、「??????良かったら、食べて」と、照れたように明里が言う。

「??????ありがとう」と仆はやっとのことで声に出した胸にふたたび热いものが込みあげてきて、すぐに泣きそうになってしまう自分が耻ずかしくて、必死にこらえた。空腹だったことを思い出して、慌てて「お腹すいてたんだ、すごく!」と言った明里は嬉しそうに笑ってくれた。

おにぎりはずっしりと重く、仆は大きな口を开けてひとくち頬张った噛みしめているうちにも涙が溢れそうで、それが奣里にばれないようにうつむきながら饮み込んだ。今まで食べたどんな物よりもおいしかった

「今まで食べた中でいちばんおいしい」と仆は正直に言った。

「きっとお腹がすいたからよ」

「そうよ私も食べよっと」と嬉しそうに明里は言って、おにぎりを手に取った。

それからしばらく、仆たちはお弁当を食べ続けたハンバーグも卵焼きも、惊くくらいおいしかった。そう伝えると明里は耻ずかしそうに笑い、それでもどこか夸らしげに、「学校が终わってから一度家に戻って作ったんだ」と言った「お母さんにちょっと教えてもらっちゃったんだけど」

「お母さんになんて言って出てきたの?」

「何时になっても绝対に家に帰るから、どうか心配しないでって手纸置いてきたの」

「仆と同じだでも明里のお母さん、きっと心配してるよね」

「うーん??????でもきっと大丈夫よ。お弁当作ってる时「谁にあげるの」なんて讯かれて私笑ってたんだけど、お母さんちょっと嬉しそうだったもん。きっと分かってるんじゃないかな」

哬を分かっているのかが気になったけど、なんとなく讯けずに仆はおにぎりを啮ったたっぷりと量のあるおにぎりはそれぞれが二つずつ食べると十分にお腹がいっぱいになり、仆はとても満ち足りた気持ちになっていた。

小さな待合室は黄色っぽいぼんやりとした光に照られていて、石油ストーブの方を向いた膝头はぽかぽかと温かかった仆たちはもう时间を気にすることなく、ほうじ茶を饮みながらゆっくりと好きなだけ话をした。ふたりとも家に帰ることは考えていなかった口に出して确かめあったわけではないけれど、お互いがそう考えていることがちゃんと分かった。话したいことはお互いに尽きぬほどあったのだこの一年の间に感じていた孤独を、仆たちは诉えあった。直接的な言叶は使わなかったけれど、お互いの不在がどれほど寂しかったか、今までどれほど会いたかったかを、仆たちは言外に相手に伝え続けた

コンコンと、駅员が控えめな音で駅员室の硝子戸を叩いた时は、もう深夜の十二时を回っていた。

「そろそろ駅を闭めますよもう电车もないですし」

仆が改札を出る时に切符を渡した初老の駅员だった。怒られるのかと思ったが彼は微笑していた「なんだか楽しそうだから邪魔したくはなかったんだけど」と、その駅员はすこし讹りのある発音で优しく言った。

「决まりだからここは闭めなくちゃいけないんですこんな雪ですし、お気をつけてお帰りください」

仆たちは駅员にお礼を言って、駅舎を出た。

岩舟の町はすっぽりと雪に埋まっていた雪は変わらずにまっすぐ降り続けていたが、空も地上も雪に挟まれた深夜の卋界は、不思议にもう寒くはなかった。仆たちはどこかうきうきした気持ちで新雪の上を并んで歩いた仆の方が明里より何センチか褙が高くなっていて、そんなことが仆をとても夸らしい気持ちにさせた。青白い街の光がスポットライトのように行く手の雪を丸く照らしていた明里は嬉しそうにそこに向かって走り、仆は记忆よりもすっかり大人びた明里の背に见とれた。

明里の案内で、彼女が以湔手纸に书いていた桜の树を见に行くことにした駅から十分ほど歩いただけなのに、民家のない広々とした畑地に出た。人工の光もうどこにもなかったけれど、あたりは雪明かりでぼんやりと明るかった风景全体が薄く微かに光っていた。まるで谁かの精巧で大切なつくりもののような、美しい风景だった

その桜の树はあぜ道の脇に一本だけぽつんと立っていた。太く高く、立派な树だったふたりで桜の树の下に立ち、空を见上げた。真っ暗な空から、折り重なった枝越しに雪が音もなく舞っていた

「ねえ、まるで雪みたいだね」と明里が言った。

「そうだね」と、仆は答えた満开の桜の舞う树の下で、仆を见て微笑んでいる明里が见えたような気がした。

その夜、桜の树の下で、仆は明里と初めてのキスをしたとても自然にそうなった。

唇と唇が触れたその瞬间、永远とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした十三年间生きてきたことのすべてを分かちあえたように仆は思い、それから、次の瞬间、たまらなく悲しくなった。

明里のそのぬくもりを、その魂を、どこに持っていけばいいのか、どのように扱えばいいのか、それが仆には分らなかったからだ大切な明里のすべてがここにあるのに。それなのに、仆はそれをどうすれば良いのかが分らないのだ仆たちはこの先もずっと一绪にいることはできないのだと、はっきりと分かった。仆たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時间が、横たわっていた

--でも、仆を瞬间捉えたその不安はやがて缓やかに溶けていき、仆の身体には明里の唇の感触だけが残っていた。明里の唇の柔らかさと温かさは、仆が知っているこの世の何にも似ていなかったそれは本当に特别なキスだった。今振り返ってみても、仆の人生には后にも先にも、あれほどまでに喜びと纯粋さと切実さに満ちたキスはなかった

仆たちはその夜、畑の脇にあった小さな纳屋で过ごした。その木造の小屋の中には様々な农具がしまい込まれていて、仆と明里は棚にあった古い毛布を引っぱり出し、濡れたコートと靴を脱いで同じ毛布にくるまり、小さな声で长い时间话をしたコートの下の明里はセーラー服を着ていて、仆は学苼服姿だった。制服を着ているのに仆たちは今ここで孤独ではない、それがむしょうに嬉しかった

毛布の中で话をしながら时折仆たちの肩は触れあい、明里の柔らかな髪は仆の頬や首筋を时々そっと抚でた。その感触と甘い匂いはそのたびに仆を昂ぶらせたけれど、仆には明里の体温を感じているだけでもう精一杯だった明里の喋る声が仆の前髪を优しく揺らし、仆の息も明里の髪をそっと揺らせた。窓の外では次第に云が薄くなり、时折薄い硝子窓から月明かりが差し込んで小屋の中を幻想的な光に満たした话し続けるうちに、仆たちはいつのまにか眠っていた。

目を覚ましたのは朝の六时顷で、雪はいつのまにか止んでいた仆たちはまだほのかに温かさの殘るほうじ茶を饮み、コートを着て駅まで歩いた。空はすっかり晴れわたり、山の稜线から升ったばかりの朝日が雪景色の田园をきらきらと辉かせている眩しい光に溢れた世界だった。

土曜日の早朝のホームに、乗客は仆たちしかいなかったオレンジと绿に涂り分けられた车輌全体に朝日を受け、両毛线が车体のあちこちを辉かせながらホームに入ってきた。ドアが开き、仆は电车に乗り込んで振り向き、目の前のホームに立っている明里を见た白いコートの前ボタンをはずし、间からセーラー服を覗かせている、十三歳の明里。

--そうだ、と仆は気づく仆たちはこれからひとりきりで、それぞれの场所に帰らなければならないのだ。

さっきまであれほどたくさんの话をして、あれほどお互いを近くに感じていたのに、それは唐突な别れだったこんな瞬间に何を言ったらよいのか分からずに仆は黙ったままで、先に言叶を発してくれたのは明里だった。

仆は「え」、という返事とも息ともつかない声を出すことしかできない

「贵树くんは??????」と明里はもう一度言って、すこしの间うつむいた。明里の后ろの雪原が朝日を浴びてまるで湖面のようにきらめいていて、そんな风景を背负った明里はなんて美しいのだろうと、仆はふと思う明里は思い切ったように颜を上げ、まっすぐに仆を见て言葉を続けた。

「贵树くんは、この先も大丈夫だと思うぜったい!」

「ありがとう??????」と仆がやっと思いで返事をした直后、电车のドアが闭まり始めた。--このままじゃだめだ仆はもっとちゃんと、明里に言叶を伝えなければならない。闭じてしまったドア越しにも闻こえるように、仆は思い切り叫んだ

「明里も元気で!手纸书くよ!电话も!」

その瞬间、远くで锐く鸣く鸟の声が闻こえたような気がした。电车が走り始め、仆たちはお互いの右手をドアのガラス越しに重ねたそれはすぐに离れてしまったけれど、确かに一瞬だけ重なった。

帰りの车輌の中で、仆はいつまでもドアの前に立ち続けていた

明里に长い手纸を书いていたこと、それをなくしてしまったことを、仆は明里に言わなかった。きっとまたいつか会えるはずだと思っていたからでもあるし、あのキスの前と后とでは、世界の何もかもが変わってしまったような気がしたからでもある

仆はドアの前に立ったまま、明里が触れたガラスにそっと右手をあてた。

「貴树くんはこの先も大丈夫だと思う」と、明里は言った

何かを言いあてられたような--それが何かは自分でも分らないけれど--不思议な気持ちだった。当时に、いつかずっとずっと未来に、明里のこの言叶が自分にとってとても大切な力になるような予感がした

でもとにかく今は--と仆は思う。仆は彼女を守れるだけの力が欲しい

それだけを思いながら仆はいつまでも、窓の外の景色を见続けていた。


我要回帖

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