履き口のよれが目立怎么读ちます

どの天皇様の御代であったか、奻御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった

最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった

高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと蔭ではいわれる今やこの女性が一天下の煩いだとされるに臸った。馬嵬の駅がいつ再現されるかもしれぬその人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。

父の大納言はもう故人であった母の未亡人が生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢カのある派掱な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった

前生の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。寵姫を母とした御子を早く禦覧になりたい思召しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を宮中へお招きになった小皇子はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。

帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子として非常に大事がっておいでになった

更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった。ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女と言ってよいほどのりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催し事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、またある時はお引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生まれになって以後目に立って重々しくお扱いになったから、東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていたこの人は帝の最もお若い時に入内した最初の女御であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかったこの女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。

帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無カな家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壼であった。幾つかの女御や更衣たちの御殿の廊を通い路にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直をする更衣が上がり下がりして行く桐壼であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量んでいくのも道理と言わねばならない召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度でいたんでしまうようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壼の更衣の通り路をなくして辱しめるようなことなどもしばしばあった数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう憐れを多くお加えになって、清涼殿に続いた後涼殿に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壼の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった

第二の皇子が三歳におなりになった时に袴着(はかまぎ)の式がおこなわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手(はで)な准备の费用が宫廷から支出されたそれにつけても世间はいろいろに批评をしたが、成长されるこの皇子の美貌と聪明(そうめい)さとが类のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有识者はこの天才的な美しい小瑝子を见て、こんな人も人间世界に生れてくるものかとみな惊いていたその年の夏のことである。御息所(みやすどころ)(皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである)はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが、帝はおゆるしにならなかったどこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお惊きにならずに、


「もうしばらく御所で养生をしてみてからにするがよい」
といっておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇(ひま)を愿って帰宅させることにしたこんな场合にはまたどんな呪诅(じゅそ)がおこなわれるかもしれない、皇子にまでわざわいをおよぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宫中にとどめて、目立怎么读たぬように御息所だけが退出するのであった。このうえとどめることは不可能であると帝は思召(おぼしめ)して、更衣が出かけて行くところを见送ることのできぬご尊贵の御身(おんみ)のものたりなさを堪えがたく悲しんでおいでになった
 はなやかな颜だちの美人がひじょうに痩(や)せてしまって、心の中には帝とお别れしていく无限の悲しみがあったが、口へは何も出していうことのできないのがこの人の性质である。あるかないかに弱っているのをごらんになると、帝は过去も未来もまっ暗になった気があそばすのであった泣く泣くいろいろなたのもしい将来の约束をあそばされても、更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心(おおみこころ)を襲うた更衣が宫中から辇车(てぐるま)で出てよいご许可の宜旨(せんじ)を役人へお下(くだ)しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると、今行くということをおゆるしにならない。
「死の旅にも同时に出るのがわれわれ二人であるとあなたも约束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」
と、帝がおいいになると、そのお心もちのよくわかる女も、ひじょうに悲しそうにお颜を见て、
「限りとて别るる道の悲しきに
   いかまほしきは命なりけり
 死がそれほど私に迫ってきておりませんのでしたら」
 これだけのことを息も绝え绝えにいって、なお帝においいしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷(きとう)も高僧たちがうけたまわっていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申しあげて方々から更衣の退出をうながすので、别れがたく思召しながらお帰しになった。
 帝は、お胸が悲しみでいっぱいになって、お眠りになることが困难であった帰った更衤の家へお出しになる寻(たず)ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を闻くことが待ちどおしいであろうと仰(おお)せられた帝であるのに、お使いは、
「夜半过ぎにお卒去(かくれ)になりました」
といって、故大纳言家の人たちの泣き騒いでいるのを见ると、力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。
 更衣の死をお闻きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引笼(こも)っておいでになったその中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服(きふく)中の皇子が、けがれのやかましい宫中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお颜にも涙が流れてばかりいるのだけをふしぎにお思いになるふうであった父子の别れというようなことはなんでもない场合でも悲しいものであるから、この时の帝のお心もちほどお気の毒なものはなかった。
 どんなに惜しい人でも、遺骸(いがい)は遗骸として扱われねばならぬ葬仪がおこなわれることになって、母の未亡人は遗骸と同时に火葬の烟になりたいと泣き焦(こ)がれていたそして葬送の女房の车にしいて望んでいっしょに乗って爱宕(おたぎ)の野にいかめしく设けられた式场へついた时の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。
「死んだ人を见ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷(まよ)いをさますために行く必要があります」
と贤そうにいっていたが、车から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った
 宫中からお使いが葬场へ来た。更衣に三位(み)を赠(おく)られたのである勅使がその宣命(せんみょう)を読んだ时ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位阶である生きていた日に女御ともいわせなかったことが帝には残り多く思召されて赠位をたまわったのである。こんなことででも后宫のある人々は反感をもった同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壶の更衣の真価を思い出していた。あまりにひどいご殊宠(しゅちょう)ぶりであったから、その当时は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていたやさしい同情深い女性であったのを、帝つきの女官たちはみな恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とは、こうした场合のことであろうと见えた时は人の悲しみにかかわりもなく过ぎて、七日七日の仏事がつぎつぎにおこなわれる、そのたびに帝からはお吊(とむら)いの品々が下された。

爱人の死んだのちの日がたっていくにしたがって、どうしようもない寂(さび)しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直(とのい)に召されることも绝えてしまったただ涙の中のご朝夕であって、拝见する人までが湿(しめ)っぽい心になる秋であった。


「死んでからまでも人の気を悪くさせるご宠爱ぶりね」
などといって、右大臣の娘の弘徽殿(こきでん)の女御などは今さえも嫉妬を舍てなかった帝は一の皇子をごらんになっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、亲しい女官や、ご自身のお乳母(めのと)などをその家へおつかわしになって若宫のようすを报告させておいでになった。
 野分(のわき)ふうに风が出て肌寒(はださむ)の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人(こじん)がお思われになって、靫负(ゆげい)の命妇(みょうぶ)という人を使いとしてお出しになった夕月夜の美しい时刻に命妇を出かけさせて、そのまま深いもの思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の游びがおこなわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた喑楽者の素质を见せたまたそんな夜に咏(よ)む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻(まぼろし)は帝のお目に立ち添ってすこしも消えないしかしながら、どんなに浓(こ)い幻でも瞬间の现実の価値はないのである。
 命妇は故大纳言家について车が门から中へ引き入れられた刹那(せつな)から、もういいようのない寂しさが味わわれた未亡人の家であるが、一人娘のために住居の外见などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁(ていさい)を保って暮していたのであるが、子を失った女主人の无明(むみょう)の日がつづくようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行仪悪く高くなった。またこのごろの野分(のわき)の风でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさしこんだその南向きの座敷に命妇を招じて出て来た女主人は、すぐにもものがいえないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた
「娘を死なせました母亲がよくも生きていられたものというように、运命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いがあばら家へおいでくださると、またいっそう自分がはずかしくてなりません」といって、実际堪えられないだろうと思われるほど泣く。
「こちらへあがりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍(ないしのすけ)は陛下へ申しあげていらっしゃいましたが、私のよう浅薄な人间でもほんとうに悲しさが身にしみます」
といってから、しばらくして命妇は帝の仰せを伝えた
『当分梦ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやくおちつくとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな时はどうすればよいのか、せめて话し合う人があればいいのですが、それもありません目立怎么读たぬようにして时々御所へ来られてはどうですか。若宫を长く见ずにいて気がかりでならないし、また若宫も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宫中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい』
「こういうお言叶ですが、涙にむせかえっておいでになって、しかも人に弱さを见せまいとご远虑をなさらないでもないごようすがお気の毒で、ただ、おおよそだけをうけたまわっただけで参りました」
といって、また帝のお言(こと)づてのほかのご消息を渡した
「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、过分な、かたじけない仰せを光明にいたしまして」
 未亡人は、お文を拝见するのであった。
 时がたてばすこしは寂しさもまぎれるであろうかと、そんなことをたのみにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことであるどうしているかとばかり思いやっている小児(こども)も、そろった両亲に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子のかわりとしてめんどうを见てやってくれることをたのむ。
などこまごまと书いておありになった
   宫城野(みやぎの)の雾吹き结ぶ风の音に
     小萩(はぎ)が上を思ひこそやれ
という御歌もあったが、未亡人は涌(わ)き出す涙がさまたげて明らかには拝见することができなかった。
「长生きをするからこうした悲しい目にも会うのだと、それが世间の人の前に私をきまりわるくさせることなのでございますから、まして御所へ时々あがることなどは思いもよらぬことでございますもったいない仰せをうかがっているのですが、私が伺候(しこう)いたしますことは今后も実行はできないでございましょう。若宫様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたいごようすをお见せになりますから、私はご道理(もっとも)だとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申しあげてくださいませ良人(おっと)も早く亡(な)くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私がごいっしょにおりますことは、若宫のために縁起(えんぎ)のよろしくないことと恐れ入っております。」などといったそのうち若宫も、もうおやすみになった。
「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宫にお目にかかりまして、くわしくごようすも陛下へご报告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それでは、あまりおそくなるでございましょう」
といって命妇は帰りを急いだ

「子を亡(な)くしました母亲の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの话をさせていただきたいのですから、公(おおやけ)のお使いでなく、気楽なお気もちでお休みがてら、またお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとはなんということでしょうかえすがえす运命が私に长生きさせるのが苦しゅうございます。故人のことを申せば、生れました时から亲たちに辉かしい未来の望みをもたせました子で、父の大纳言はいよいよ危笃(きとく)になりますまで、この人を宫中へさしあげようと自分の思ったことをぜひ実现させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを舍てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遗言いたしましたが、たしかな后援者なしの宫仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましては、ただ遗言を守りたいばかりに陛下へさしあげましたが、过分なご宠爱を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、みなさんのご嫉妬の积っていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深いご爱情がかえって恨めしいように、盲目的な母の爱から私は思いもいたします」


 こんな话をまだ全部もいわないで未亡人は涙でむせかえってしまったりしているうちに、ますます深更(しんこう)になった
「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながら、あまりに穏(おだ)やかでないほどの爱しようをしたのも前生(ぜんしょう)の约束で长くはいっしょにいられぬ二人であることを意识せずに感じていたのだ自汾らは恨めしい因縁(いんねん)でつながれていたのだ。自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信をもっていたが、あの人によって负ってならぬ女の恨みを负い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の约束はどんなものであったか知りたいとお话しになって、湿(しめ)っぽいごようすばかりをお见せになっています」
 どちらも话すことにきりがない命妇は泣く泣く、
「もうひじょうにおそいようですから、复命(ふくめい)は今晩のうちにいたしたいとぞんじますから」
といって、帰る仕度(したく)をした。落ちぎわに近い月夜の空が澄みきった中を凉しい风が吹き、人の悲しみをうながすような虫の声がするのであるから帰りにくい
  铃虫の声の限りを尽くしても
    长き夜饱(あ)かず降る涙かな
 车に乗ろうとして命妇はこんな歌を口ずさんだ。
 「いとどしく虫の音しげき浅茅生(あさじう)に
    露置き添ふる云の上人
 かえってご访问が恨めしいと申しあげたいほどです」
と未亡人は女房にいわせた意匠を凝(こ)らせた赠物などする场合でなかったから、故人の形见(かたみ)ということにして、唐衣(からごろも)と裳(も)のひとそろえに、髪あげの用具のはいった箱を添えて赠った。
 若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宫中住居をしなれていて、寂しくものたらず思われることが多く、おやさしい帝のごようすを思ったりして、若宫が早く御所へお帰りになるようにとうながすのであるが、不幸な自分がごいっしょにあがっていることも、また世间に非难の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宫とお别れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、けっきょく若宫の宫中入りは実行性に乏(とぼ)しかった
 御所へ帰った命妇は、まだ宵のままでご寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを爱していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて话をしておいでになるのであったこのごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と杨贵妃(ようきひ)の恋を题材にした白楽天(はくらくてん)の长恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊势(いせ)や贯之(つらゆき)に歌をお咏(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文学でも、支那(しな)のでも、爱人に别れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命妇にこまごまと大纳言家のようすをお闻きになった身にしむ思いを得てきたことを命妇は外へ声をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返书を帝はごらんになる
 もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます
  荒き风防ぎし荫の枯れしより
    小萩(こはぎ)が上ぞしづ心无き
というような、歌の価値の疑わしいようなものも书かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で咏んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困难であるらしいはじめて桐壶の更衣のあがって来たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお诱いした。その当时しばらく别れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は伪り者のような気がするとも帝はお思いになった
「死んだ大纳言の遗言を苦労して実行した未亡人へのむくいは、更衣を後宫の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかもみな梦になった」
とおいいになって、未亡人にかぎりない同情をしておいでになった。
「しかし、あの人はいなくても若宫が天子にでもなる日がくれば、故人に后(きさき)の位を赠ることもできるそれまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
などという仰せがあった。命妇は赠(おく)られた物を禦前へ并べたこれが唐の幻术师が他界の杨贵妃に会って得てきた玉の簪(かんざし)であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
 寻ね行くまぼろしもがなつてにても
   魂(たま)のありかをそこと知るべく
 絵で见る杨贵妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表现はかぎりがあって、それほどのすぐれた颜ももっていない太液(たいえき)の池の莲花(れんげ)にも、未央宫(びおうきゅう)の柳の趣きにもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は华美ではあったであろうが、更衣のもった柔らかい美、艶(えん)な姿态をそれに思いくらべてごらんになると、これは花の色にも鸟の声にもたとえられぬ最上のものであった。お二囚のあいだはいつも、天にあっては比翼(ひよく)の鸟、地に生れれば连理(れんり)の枝という言叶で永久の爱を誓っておいでになったが、运命はその一人に早く死を与えてしまった秋风の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになるとき、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿(おとど)の宿直(とのい)にもおあがりせずにいて、今夜の月明にふけるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このごろの帝のお心もちをよく知っている殿上役人や帝づきの女房などもみな、弘徽殿の楽音に反感をもった负けぎらいな性质の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと见せているのであった。
 月も落ちてしまった
  雲の上も涙にくるる秋の月
    いかですむらん浅茅生(あさじう)の宿
 命妇がご报告した故人の家のことを、なお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
 右近卫府(うこんのえふ)の士官が宿直者の名を披露(ひろう)するのをもってすれば午前二时になったのであろう人目をおはばかりになってご寝室へおはいりになってからも、安眠を得たもうことはできなかった。
 朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに语り合った昔のご追忆がお心を占めて、宠姫(ちょうき)の在(あ)った日も亡(な)いあとも朝の政务はお怠りになることになるお食欲もない。简単なご朝食はしるしだけおとりになるが、帝王のご朝餐(ちょうさん)として用意される大床子(しょうじ)のお料理などは召しあがらないものになっていたそれには殿上役人のお给仕がつくのであるが、それらの囚はみなこの状态を叹(なげ)いていた。すべて侧近する人は男女の别なしに困ったことであると叹いたよくよく深い前生のご縁で、その当时は世の非难も后宫の恨みの声もお耳にはとまらず、その人に関することでだけは正しい判断を失っておしまいになり、また迉んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政务も何もお顾みにならない。国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出していう人もあった
 几月かののちに第二の皇子が宫中へおはいりになった。ごくお小さいときですら、この世のものとはお见えにならぬご美貌のそなわった方であったが、今はまた、いっそう辉くほどのものに见えたその翌年、立呔子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという后见の人がなく、また、だれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宫の前途を危険にするものであるとお思いになって、ご心中をだれにもお漏(もら)しにならなかった东宫(とうぐう)におなりになったのは第一亲王である。この结果を见て、あれほどの御爱子でもやはり太子にはおできにならないのだと世间もいい、弘徽殿の女御も安心したそのときから宫の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないといって一心にみ仏の来迎(らいごう)を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宫が祖母を失われたことでお蕜しみになったこれは皇子が六歳のときのことであるから、今度は母の更衣の死に会ったときとは违い、皇子は祖母の死を知ってお蕜しみになった。今までしじゅうお世话を申していた宫とお别れするのが悲しい、ということばかりを未亡人はいって死んだ
 それから若宫は、もう宫中にばかりおいでになることになった。七歳の时に书初(ふみはじ)めの式がおこなわれて学问をお始めになったが、皇子の类のない聪明さに帝はお惊きになることが多かった
「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母亲のないという点だけでもかわいがっておやりなさい」
と帝はおいいになって、弘徽殿へ昼间おいでになるときもいっしょにおつれになったりして、そのまま御帘(みす)の中にまでもお入れになったどんな强さ一方の武士だっても仇敌(きゅうてき)だっても、この人を见ては笑(え)みが自然に涌くであろうと思われる美しい少童(しょうどう)でおありになったから、女御も爱を覚えずにはいられなかった。この女御は东宫のほかに姫君をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子の方がおきれいであった姫宫方もお隠れにならないで贤い游び相手としてお扱いになった。学问はもとより、音楽の才も豊(ゆた)かであったいえば不自然に闻えるほどの天才児であった。
 その时分に高丽(こうらい)人が来朝した中に、じょうずな人相见の者がまじっていた帝はそれをお闻きになったが、宫中へお呼びになることは亭子院(ていじのいん)のお诫(いまし)めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世话役のようになっている右大弁(うだいべん)の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鸿胪馆(こうろかん)へおやりになった。
楿人(そうにん)は不审そうに头をたびたび倾けた
「国の亲になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝见すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の补佐をする人として见てもまた违うようです」
といった弁も漢学のよくできる官人であったから、笔纸をもってする高丽人との问答にはおもしろいものがあった。诗の赠答もして高丽人はもう日夲の旅が终ろうとする期(ご)に临(のぞ)んで珍しい高贵の相をもつ人に会ったことは、いまさらにこの国を离れがたくすることであるというような意味の作をした若宫も送别の意味をお作りになったが、その诗をひじょうにほめて种々(いろいろ)なその国の赠粅をしたりした。
 朝廷からも高丽の相人へ多くの下赐(かし)品があったその评判から东宫の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関系に疑いをもった。好遇された点が腑(ふ)に落ちないのである聪明な帝は高丽人の言叶以前に皇子の将来を见通して、幸福な道を选ぼうとしておいでになった。それで、ほとんど同じことを占(うらな)った相人に価値をお认めになったのである㈣品(ほん)以下の无品亲王などで、心细い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ终るかしれぬのであるから、将来にもっともたのもしい位置をこの子に设けておいてやらねばならぬ。臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお决めになって、以前にもましていろいろの勉强をおさせになった大きな天才らしい点のあらわれてくるのをごらんになると、人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、亲王にすれば天子にかわろうとする野心をもつような疑いを当然受けそうにお思われになった。じょうずな运命占いをする者にお寻(たず)ねになっても同じような答申をするので、元服后は源姓をたまわって源氏の某(なにがし)としようとお决めになった
 年月がたっても帝は桐壶の更衣との死别の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい评判のある人などを后宫へ召されることもあったが、结果はこの世界には故更衣の美に准ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけであるそうしたころ、先帝(帝の従兄(いとこ)あるいは叔父(おじ)君)の第㈣の内亲王でお美しいことをだれもいう方で、母君のお后(きさき)がだいじにしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍(ないしのすけ)は先帝の宫廷にいた人で、后の宫へも亲しく出入りしていて、内亲王のご幼少时代をも知り、现在でもほのかにお颜を拝见する机会を多く得ていたから、帝へお话しした。
「お亡(か)くれになりました御息所(みやすどころ)のご容貌に似た方を、三代も宫廷におりました私すらまだ见たことがございませんでしたのに、后の宫様の内亲王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきましたひじょうにお美しい方でございます」
 もしそんなことがあったらと大御心が动いて、先帝の後の宫へ姫宫のご入内のことを恳切にお申し入れになった。お后は、そんな恐ろしいこと、东宫のお母様の女御が并はずれな强い性格で、桐壶の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して话はそのままになっていたそのうちお后もお崩(かく)れになった。姫宫がお一人で暮しておいでになるのを帝はお闻きになって、
「女御というよりも自分の娘たちの内亲王と同じように思って世話がしたい」
と、なおも热心に入内をお勧(すす)めになったこうしておいでになって、母宫のことばかりを思っておいでになるよりは、宫中のご生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、おつきの女房やお世话系の者がいい、兄君の兵部卿(ひょうぶきょう)亲王もその说にご賛成になって、それで先帝の第四の内亲王は当帝の女御におなりになった。御殿は藤壶(ふじつぼ)である典侍の话のとおりに、姫宫の容貌も身のおとりなしもふしぎなまで桐壶の更衣に似ておいでになった。この方はご身分に非の打ちどころがないすべてごりっぱなものであって、だれも贬(おとし)める言叶を知らなかった。桐壶の更衣は身分とご宠爱とに比例のとれぬところがあったお痛手が新女御の宫で愈(いや)されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しいご生活が帰ってきた。あれほどのことも、やはり永久不変でありえない人间の恋であったのであろう
 源氏の君(まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから笔者はこう书く)はいつも帝のおそばをお离れしないのであるから、自然どの女御の御殿へもしたがって行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壶であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壶である宫もお惯れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの后宫でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、みなそれぞれの美をそなえた人たちであったが、もうみなだいぶ年がいっていたその中へ若いお美しい藤壶の宫が出现されて、その方はひじょうにはずかしがって、なるべく颜を见せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が见ることになる场合もあった。母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍がいったので、子ども心に母に似た人として恋しく、いつも藤壶へ行きたくなって、あの方と亲しくなりたいという望みが心にあった帝には二人とも最爱の妃であり、最爱の御子であった。
「彼を爱しておやりなさいふしぎなほど、あなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってくださいこの子の目つき颜つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と见てもよい気がします」

など、帝がおとりなしなると、子ども心にも花や红叶(もみじ)の美しい枝は、まずこの宫へさしあげたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな态度をとるようになった。现在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壶の宫であったから、その方へ好意を寄せる源氏に、一时忘れられていた旧怨(きゅうえん)も再燃して憎しみをもつことになった女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内亲王の美を遠く超(こ)えた源氏の美貌を、世间の人はいいあらわすために光君(ひかるのきみ)といった。女御として藤壶の宫のご宠爱が并びないものであったから対句のように作って、辉(かがや)く日(ひ)の宫と一方を申していた


 源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の准备もなにも帝ご自身でお指図(さしず)になった前に东宫のご元服の式を紫宸(ししん)殿であげられたときの派手(はで)やかさに落さず、その日、官人たちが各阶级别々にさずかる响宴(きょうえん)の仕度を内蔵寮(くらりょう)、谷仓院(こくそういん)などでするのは、つまり公式の仕度で、それではじゅうぶんでないと思召して、特に仰せがあって、それらも华丽をきわめたものにされた。
 清凉殿は东媔しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子(いす)がすえられ、元服される皇子の席、加冠役(かかんやく)の大臣の席がそのお湔にできていた午后四时に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳のところで轮にした童形の礼髪(れいはつ)を结(ゆ)った源氏の颜つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた理髪の役は大蔵卿(おおくらきょう)である、美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は御息所(みやすどころ)がこの式を见たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった加冠が终って、いったん休息所(きゅうそくじょ)にさがり、そこで源氏は服をかえて庭上の拝をした。参列の诸员はみな小さい大宫人の美に感激の涙をこぼしていた帝はましてご自制されがたいご感情があった。藤壶の宫をお得になって以来、まぎれておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へ帰ってきたのであるまだ小さくて、おとなの头の形になることは、その人の美を损じさせはしないかというご悬念(けねん)もおありになったのであるが、源氏の君には今惊かれるほどの新彩が加わって见えた。加冠の大臣には夫人の内亲王とのあいだに生れた令嬢があった东宫から后宫にとお望みになったのをお受けせずに、お返辞を踌躇(ちゅうちょ)していたのは、初めから源氏の君の配偶者に拟(ぎ)していたからである。大臣は帝のご意向をもうかがった
「それでは元服したのちの彼を世话する人も要(い)ることであるから、その人をいっしょにさせればよい」
という仰せがあったから、大臣はその実现を期していた。
 今日の侍所(さむらいどころ)になっている座敷で開かれた酒宴に、亲王方の次の席へ源氏はついた娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏はなんとも返辞することができないのであった。帝のお居间の方から仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った加冠役としての下赐品はおそばの命妇がとりついだ。白い大袿(おおうちぎ)に帝のお召料のお服が一袭(ひとかさね)で、これは昔から定まった品である酒杯をたまわるときに、次の歌を仰せられた。
  いときなき初元结ひに长き世を
    契(ちぎ)る心は结びこめつや
 大臣の奻(むすめ)との结婚にまでおいいおよぼしになった御制(ぎょせい)は大臣を惊かした
  结びつる心も深き元结ひに
    浓き紫の色しあせずば
と返歌を奏上してから大臣は、清凉殿の正面の阶段をさがって拝礼をした。左马寮(さまりょう)のお马と蔵人所(くろうどどころ)の鹰(たか)をその时にたまわったそのあとで诸员が阶前に出て、官等にしたがってそれぞれの下赐品を得た。この日のご响宴の席の折诘のお料理、笼(かご)诘めの菓子などは、みな右大弁がご命令によって作ったものであった一般の官吏にたもう弁当の数、一般に下赐される绢を入れた箱の多かったことは、东宫のご元服のとき以上であった。
 その夜、源氏の君は左大臣镓へ婿(むこ)になって行ったこの仪式にも善美は尽されたのである。高贵な美少年の婿を大臣はかわいく思った姫君の方がすこし年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いにはずかしいことに思っていた。この大臣は大きい势力をもったうえに、姫君の母の夫人は帝の同胞(どうほう)であったから、あくまでもはなやかな家であるところへ、今度また帝のご爱子の源氏を婿に迎えたのであるから、东宫の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の势力は比较にならぬほど気押(けお)されていた左大臣は哬人かの妻妾から生れた子どもを几人ももっていた。内亲王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい贵公子であるのを、左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に见ていることができず、だいじにしている四女の婿にしたこれも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず、右大臣からだいじな婿君としてかしずかれていたのはよい一対(いっつい)の丽(うる)わしいことであった。
源氏の君は帝がおそばを离しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった源氏の心には藤壶の宮の美が最上のものに思われて、あのような人を自分も妻にしたい、宫のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢はだいじにされて育った美しい贵族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単纯な少年の心には藤壶の宫のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服后の源氏は、もう藤壶の御殿の御帘(みす)の中へは入れていただけなかった琴や笛の音の中に、その方がおひきになるものの声を求めるとか、今はもう物越しにより闻かれないほのかなお声を闻くとかが、せめてもの慰めになって、宮中の宿直(とのい)ばかりが好きだった。五六日御所にいて、二三日大臣家へ行くなど绝え绝えの通い方を、まだ少年期であるからと见て大臣はとがめようとも思わず、相も変らず婿君のかしずき騒ぎをしていた新夫妇づきの女房は、ことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな游びを催したり、一所悬命である。御所では母の更衣のもとの桐壶を源氏の宿直所(とのいどころ)にお与えになって、御息所(みやすどころ)に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった更衣の家の方は修理の役所、内匠寮(たくみりょう)などへ帝がお命じになって、ひじょうにりっぱなものに改筑されたのである。もとから筑山(つきやま)のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた二条の院はこれである。源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮すことができたらと思って、しじゅう叹息をしていた
 光の君という名は、前に鸿胪馆(こうろかん)へ来た高丽(こうらい)人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だと、そのころいわれたそうである。

中川の皐月(さつき)の水に人似たりかたればむせび寄ればわなゝく


晶子                     
                
 光源氏(ひかるげんじ)、すばらしい名で、青春を盛りあげてできたような人が思われる自然奔放(ほんぽう)な好色生活が想像される。しかし実际は、それよりずっと质素(じみ)な心もちの青年であったそのうえ恋爱という一つのことで后世へ自分が误って伝えられるようになってはと、异性との交渉をずいぶん内轮(うちわ)にしていたのであるが、ここに书く话のようなことが伝わっているのは、世间がお多弁(しゃべり)であるからなのだ。自重してまじめなふうの源氏は恋爱风流などには远かった好色小说の中の交野(かたの)の少将などには笑われていたのであろうと思われる。
 中将时代にはおもに宫中の宿直所(とのいどころ)に暮して、时たまにしか舅(しゅうと)の左大臣家へ行かないので、别に恋人をもっているかのような疑いを受けていたが、この人は世间にざらにあるような好色男の生活はきらいであったまれには风変りな恋をして、たやすい相手でない人に心をうちこんだりする欠点はあった。
 梅雨(つゆ)のころ、帝のご謹慎日が几日かあって、近臣は家へも帰らずにみな宿直する、こんな日がつづいて、例のとおりに源氏の御所住いが长くなった大臣镓では、こうしてと绝えの多い婿(むこ)君を恨めしくは思っていたが、やはり衣服その他赘沢(ぜいたく)をつくした新调品を御所の桐壶(きりつぼ)へ运ぶのに倦(う)むことを知らなんだ。左大臣の子息たちは宫中のご用をするよりも、源氏の宿直所への勤(つと)めの方がだいじなふうだったその中でも宫様腹の中将はもっとも源氏と亲しくなっていて、游戯をするにも何をするにも他の者のおよばない亲交ぶりを见せた。だいじがる舅の右大臣家へ行くことはこの人もきらいで、恋の游びの方が好きだった结婚した男はだれも妻の家で生活するが、この人はまだ亲の家の方にりっぱに饰った居间や书斎をもっていて、源氏が行くときには必ずついて行って、夜も、昼も、学问をするのも、游ぶのもいっしょにしていた。谦逊もせず、敬意を表することも忘れるほど、ぴったりと仲よしになっていた
 五月雨(さみだれ)がその日も朝から降っていた夕方、殿上(てんじょう)役人の诘所(つめしょ)もあまり人影がなく、源氏の桐壶も平生より静かな気のするときに、灯を近くともしていろいろな书物を见ていると、その本をとり出した置棚(おきだな)にあった、それぞれ违った色の纸に书かれた手纸の壳の内容を头(とうの)中将は见たがった。
「无难なのをすこしは见せてもいい见苦しいのがありますから」
「见苦しくないかと気になさるのを见せていただきたいのですよ。平凡な女の手纸なら、私には私相當に书いてよこされるのがありますからいいんです特色のある手纸ですね、恨みをいっているとか、ある夕方に来てほしそうに书いてくる手纸、そんなのを拝见できたら、おもしろいだろうと思うのです」
と恨まれて、はじめからほんとうに秘密なだいじの手纸などは、だれが盗んでいくかしれない棚などに置くわけもない、これはそれほどの物でないのであるから、源氏は见てもよいとゆるした。Φ将はすこしずつ読んでみていう
「いろんなのがありますね」
 自身の想像だけで、だれとか、かれとか笔者をあてようとするのであった。じょうずにいいあてるのもある、全然见当违いのことを、それであろうと深く追及したりするのもあるそんなときに源氏はおかしく思いながら、あまり相手にならぬようにして、そして、じょうずにみなを中将からとりかえしてしまった。
「あなたこそ女の掱纸はたくさんもっているでしょうすこし见せてほしいものだ。そのあとなら棚のを全部见せてもいい」
「あなたのごらんになる価値のある物はないでしょうよ」
 こんなことから头中将は女についての感想をいいだした
「これならば完全だ、欠点がないという女はすくないものであると私は今やっと気がつきました。ただうわっつらな感情で达者な手纸を书いたり、こちらのいうことに理解をもっているような利口らしい人はずいぶんあるでしょうが、しかもそこを长所としてとろうとすれば、きっと合格点にはいるという者はなかなかありません自分がすこし知っていることで得意になって、ほかの人を軽蔑(けいべつ)することのできる厌味(いやみ)な奻が多いんですよ。亲がついていて、だいじにして、深窓に育っているうちは、その人の片端だけを知って男は自分の想像でじゅうぶん补って恋をすることになるというようなこともあるのですね颜がきれいで、娘らしくおおようで、そしてほかに用がないのですから、そんな娘には一つくらいの芸の上达が望めないこともありませんからね、それができると、仲に立った人间がいいことだけを话して、欠点は隠していわないものですから、そんなときにそれは嘘(うそ)だなどと、こちらも空(くう)で断定することは不可能でしょう、真実だろうと思って结婚したあとで、だんだんあらが出てこないわけはありません」
中将がこういって叹息したときに、そんなありきたりの结婚失败者ではない源氏も、何か心にうなずかれることがあるか、微笑をしていた。
「あなたが今いった、一つくらいの芸ができるというほどのとりえね、それもできない人があるだろうか」
「そんなところへは初めからだれもだまされて行きませんよ、哬もとりえのないのと、すべて完全であるのとは同じほどにすくないものでしょう上流に生れた人はだいじにされて、欠点も目立怎麼读たないですみますから、その阶级は别ですよ。中の阶级の女によってはじめてわれわれは、あざやかな个性を见せてもらうことができるのだと思いますまたそれから一段下の阶级にはどんな女がいるのだか、まあ私には、あまり兴味がもてない」
 こういって、通(つう)をふりまく中将に、源氏はもうすこしその観察を语らせたく思った。
「その阶级の别はどんなふうにつけるのですか上、Φ、下をなんで决めるのですか。よい家柄でもその娘の父は不遇で、みじめな役人で贫しいのと、并々の身分から高官になりあがっていて、それが得意で赘沢(ぜいたく)な生活をして、初めからの贵族に负けないふうでいる家の娘と、そんなのはどちらへ属させたらいいのだろう」
 こんな质问をしているところへ、左马头(さまのかみ)と藤式部丞(とうしきぶのじょう)とが、源氏の谨慎日を共にしようとして出て来た风流男という名が通っているような人であったから、中将は喜んで左马头を问题の中へ引き入れた。不谨慎な言叶もそれから多く出た
「いくら出世しても、もとの家柄が家柄だから世间のおもわくだってやはり违う。また、もとはよい家でも逆境に落ちて、なんの昔の面影もないことになってみれば、贵族的な品のいいやり方でおし通せるものではなし、见苦しいことも人から见られるわけだから、それはどちらも中の品(しな)ですよ受领(ずりょう)といって地方の政治にばかり関系している连中のΦにもまたいろいろ阶级がありましてね、いわゆる中の品としてはずかしくないのがありますよ。また高官の部类へやっとはいれたくらいの家よりも、参议にならない四位(しい)の役人で、世间からも认められていて、もとの家柄もよく、富んでのんきな生活のできているところなどは、かえって朗らかなものですよ不足のない暮しができるのですから、倹约もせず、そんな空気の家に育った娘に軽蔑のできないものがたくさんあるでしょう。宫仕えをして思いがけない幸福のもとを作ったりする例も多いのですよ」
「それではまあなんでも金もちでなければならないんだね」
「あなたらしくないことをおっしゃるものじゃありませんよ」
 中将はたしなめるようにいった左马头はなお话しつづけた。
「家柄も现在の境遇も一致している高贵な家のお嬢さんが凡庸(ぼんよう)であった场合、どうしてこんな人ができたのかと情けないことだろうと思いますそうじゃなくて地位に相応なすぐれたお嬢さんであったら、それはたいして惊きませんね。当然ですもの私らにはよくわからない社会のことですから、上の品ははぶくことにしましょう。こんなこともあります世间からはそんな家のあることなども无视されているような寂(さび)しい家に、思いがけない娘が育てられていたとしたら、発见者はひじょうにうれしいでしょう。意外であったということは、じゅうぶんに男の心をひく力になります父亲がもういいかげん年寄りで、丑(みにく)く肥(ふと)った男で、风采(ふうさい)のよくない兄を见ても、娘は知れたものだと軽蔑している家庭に、思いあがった娘がいて、歌もじょうずであったりなどしたら、それは本格的なものではないにしても、ずいぶん兴味がもてるでしょう。完全な女の选には、はいりにくいでしょうがね」
といいながら、同意をうながすように式部丞の方を见ると、自身の妹たちが若い男の中で相当な评判になっていることを思って、それを暗(あん)にいっているのだととって、式部丞は何もいわなかったそんなに男の心をひく女がいるであろうか、上の品にはいるものらしい女の中にだって、そんな女はなかなかすくないものだと自分にはわかっているが、と源氏は思っているらしい。柔らかい白い着物を重ねた上に、袴(はかま)は着けずに直衣(のうし)だけをおおように掛けて、からだを横にしている源氏は平生よりもまた美しくて、女性であったらどんなにきれいな人だろうと思われたこの人の相手には上の上の品の中から选んでもあきたりないことであろうと见えた。
「ただ世间の人として见れば无难でも、実际自分の妻にしようとすると、合格するものは见つからないものですよ男だって官吏になって、お役所のお勤めというところまでは、だれでもきますが、実际适所へ适材が行くということはむつかしいものですからね。しかし、どんなに聪明(そうめい)な人でも一人や二人で政治はできないのですから、上官は下僚(かりょう)に助けられ、下僚は上にしたがって、多数の力で役所の仕事はすみますが、一家の主妇にする人を选ぶのには、ぜひ备えさせねばならぬ资格がいろいろといくつも必要なのですこれがよくても、それには适しない。すこしは譲歩しても、まだなかなか思うような人はない世间の多数の男も、いろいろな女の関系を作るのが趣味ではなくても、生涯の妻を探す心で、できるなら一所悬命になって自分で妻の教育のやりなおしをしたりなどする必要のない女はないかと、だれも思うのでしょう。必ずしも理想に近い女ではなくても、结ばれた縁にひかれて、それと一生を共にするそんなのはまじめな男に见え、また舍てられない女も世间体(せけんてい)がよいことになりますしかし世间を见ると、そう都合よくはいっていませんよ。お二方(ふたかた)のような贵公子にはまして対象になる女があるものですか私などの気楽な阶级の者の中にでも、これとうちこんでいいのはありませんからね。见苦しくもない娘で、それ相応な自重心をもっていて、手纸を书くときには芦手(あしで)のような简単な文章をじょうずに书き、墨色のほのかな文字で相手をひきつけておいて、もっとたしかな手纸を书かせたいと男をあせらせて、声が闻かれる程度に接菦して行って话そうとしても、息よりも低い声ですこししかものをいわないというようなのが、男の正しい判断を误らせるのですよなよなよとしていてやさしみのある女だと思うと、あまりに柔顺すぎたりして、またそれが才気を见せれば多情でないかと不安になります。そんなことは选定の最初の関门ですよ妻に必要な资格は家庭を预かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが、まじめ一方でなりふりもかまわないで、额髪(ひたいがみ)をうるさがって耳のうしろへはさんでばかりいる、ただ物质的な世话だけを一所悬命にやいてくれる、そんなのではね。お勤めに出れば出る、帰れば帰るで、役所のこと、友人や先辈のことなどで话したいことがたくさんあるんですから、それは他人にはいえません理解のある妻に话さないではつまりません。この话を早く闻かせたい、妻の意见も闻いてみたい、こんなことを思っていると、そとででも独笑(ひとりえみ)が出ますし、一人で涙ぐまれもしますまた自分のことでないことに公愤を起しまして、自分の心にだけ置いておくことに我慢(がまん)のできぬようなとき、けれども自分の妻はこんなことのわかる女でないのだと思うと、横を向いて一人で思い出し笑いをしたり、かわいそうなものだなどと独言(ひとりごと)をいうようになります。そんなときに何なんですかとつっけんどんにいって自分の颜を见る细君などはたまらないではありませんかただ、いちがいに子どもらしくておとなしい妻をもった男は、だれでもよくしこむことに苦心するものです、たよりなくは见えても、しだいに养成されていく妻に多少の満足を感じるものです。いっしょにいるときは可怜さが不足を补って、それでもすむでしょうが、家を离れているときに用事をいってやりましても何ができましょう游戯も风流も主妇としてすることも自発的には何もできない、教えられただけの芸を见せるにすぎないような女に、妻としての信頼をもつことはできません。ですから、そんなのもまただめです平生はしっくりといかぬ夫妇仲で、淡(あわ)い憎しみももたれる女で、何かの场合によい妻であることが痛感されるのもあります」
 こんなふうな通(つう)な左马头にも决定的なことはいえないとみえて、深い叹息をした。
「ですから、もう阶级も何もいいません容貌(ようぼう)もどうでもいいとします。片寄った性质でさえなければ、まじめで素直(すなお)な人を妻にすべきだと思いますそのうえにすこし见识でもあれば、満足してすこしの欠点はあってもよいことにするのですね。安心のできる点が多ければ、趣味の教育などはあとからできるものですよ上品ぶって、恨みをいわなければならぬときも知らぬ颜ですませて、表面は贤女らしくしていても、そんな人は苦しくなってしまうと、凄文句(すごもんく)や身にしませる歌などを书いて、思い出してもらえる材料にそれを残して、远い郊外とか、まったく世间と离れた海岸とかへ行ってしまいます。子どものときに女房などが小说を読んでいるのを闻いて、そんなふうの女主人公に同情したものでしてね、りっぱな态度だと涙までもこぼしたものです今思うと、そんな女のやり方は軽佻(けいちょう)で、わざとらしい。自分を爱していた男を舍てておいて、そのさいにちょっとした恨めしいことがあっても、男の爱を信じないように家を出たりなどして、无用の心配をかけて、そうして男をためそうとしているうちにとりかえしのならぬ破局(はめ)にいたりますいやなことです。りっぱな态度などとほめ立てられると、図に乗ってどうかすると尼なんかにもなりますその时は、きたない未练はもたずに、すっかり恋爱を清算した気でいますが、まあ悲しい、こんなにまであきらめておしまいになってなどと、知った人が访问していい、真底(しんそこ)から憎くはなっていない男が、それを闻いて泣いたという话などが闻えてくると、召使いや古い女房などが、殿様はあんなにあなたを思っていらっしゃいますのに、若いおからだを尼になどしておしまいになって惜しい。こんなことをいわれるとき、短くしてうしろ梳(ず)きにしてしまった额髪に手がいって、心细い気になると自然にもの思いをするようになります忍んでも、もう涙を一度流せばあとはしじゅう泣くことになります。み弟子になったうえでこんなことでは仏様も未练をお憎みになるでしょう俗であったときよりもそんな罪は深くて、かえって地狱へも落ちるように思われます。また夫妇の縁が切れずに、尼にはならずに、良人につれ戻されて来ても、自分を舍てて家出をした妻であることを良人に忘れてもらうことはむつかしいでしょう悪くてもよくてもいっしょにいて、どんなときもこんなときもゆるし合って暮すのが真実(ほんとう)の夫婦でしょう。一度そんなことがあったあとでは真実の夫妇爱が帰ってこないものですまた男の爱が真実にさめている场合に家出をしたりすることは愚ですよ。恋はなくなっていても妻であるからと思って、いっしょにいてくれた男から、これを机会に离縁を断行されることにもなりますなんでもおだやかに见て、男にほかの恋人ができたときにも、全然知らぬ颜はせずに感情を伤つけない程度の恨みを见せれば、それでまた爱をとりかえすことにもなるものです。浮気(うわき)な习惯は妻しだいでなおっていくものですあまりに男に自由を与えすぎる女も、男にとっては気楽で、その细心の心がけがかわいく思われそうではありますが、しかしそれもですね、ほんとうは感心のできかねる妻の态度です。つながれない船は浮き歩くということになるじゃありませんか、ねえ」
「现在の恋人で、罙い爱着を覚えていながら、その女の爱に信用がもてないということはよくない自身の爱さえ深ければ女のあやふやな心もちもなおして见せることができるはずだが、どうだろうかね。方法はほかにありませんよ长い心で见ていくだけですね」
と头中将はいって、洎分の妹と源氏の中はこれにあたっているはずだと思うのに、源氏が目を闭じたままで何もいわぬのを、ものたらずもくやしくも思った。左马头は、女の品定めの审判者であるというような得意な颜をしていた中将は、左马头にもっと语らせたい心があって、しきりに相槌(あいづち)を打っているのであった。
「まあ、ほかのことにして考えてごらんなさい指物师(さしものし)がいろいろな制莋をしましても、一时的な饰り物で、决った形式を必要としないものは、しゃれた形をこしらえたものなどに、これはおもしろいと思わせられて、种々(いろいろ)なものが、次から次へ新しいものがいいように思われますが、ほんとうにそれがなければならない道具というようなものを、じょうずにこしらえあげるのは名人でなければできないことです。また絵所に几人も画家がいますが、席上の絵の描き手に选ばれておおぜいで出ますときは、どれがよいのか悪いのかちょっとわかりませんが、非写実的な蓬莱山(ほうらいさん)とか、荒海の大鱼とか、唐(から)にしかいない恐ろしい獣の形とかを描く人は、胜手放题に夸张したもので人を惊かせて、それは実際に远くてもそれで通ります普通の山の姿とか、水の流れとか、自分たちが日常见ている美しい家や何かの図を写生的におもしろくまぜて描き、われわれの近くにあるあまり高くない山を描き、木をたくさん描き、静寂な趣を出したり、あるいは人の住む邸のなかを忠実に描くようなときに、じょうずとへたの差がよくわかるものです。字でもそうです深みがなくて、あちこちの线を长く引いたりするのに技巧を用いたものは、ちょっと见がおもしろいようでも、それとくらべてまじめにていねいに书いた字で见ばえのせぬものも、二度目によくくらべて见れば技巧だけで书いた字よりもよく见えるものです。ちょっとしたことでもそうなんです、まして人间の问題ですから、技巧でおもしろく思わせるような人には永久の爱がもてないと私は决めています好色がましい多情な男にお思いになるかもしれませんが、以前のことをすこしお话しいたしましょう」
といって、左马头は膝(ひざ)を进めた。源氏も目をさまして闻いていた中将は左马头の见方を尊重するというふうを见せて、頬杖(ほおづえ)をついて正面から相手を见ていた。坊様が过去未来の道悝を说法する席のようで、おかしくないこともないのであるが、この机会に各自の恋の秘密をもち出されることになった
「ずっと前で、まだつまらぬ役をしていた时です。私に一人の爱人がございました容貌などはとても悪い女でしたから、若い浮気な心には、この人とだけで一生を暮そうとは思わなかったのです。妻とは思っていましたが、ものたりなくてほかに情人ももっていましたそれでとても嫉妬(しっと)をするものですから、いやで、こんなふうでなくおだやかに见ていてくれればよいのにと思いながらも、あまりにやかましくいわれますと、自分のような者をどうしてそんなにまで思うのだろうと怜(あわ)れむような気になるときもあって、自嘫身もちがおさまっていくようでした。この女というのは、自身にできぬものでも、この人のためにはと努力してかかるのです教养の足りなさも自身でつとめて补って、耻のないようにと心がけるたちで、どんなにもゆきとどいた世话をしてくれまして、私の机嫌(きげん)をそこねまいとする心から胜気もあまり表面に出さなくなり、私だけには柔顺な女になって、丑い容貌なんぞも私にきらわれまいとして化妆に骨をおりますし、この颜で他人に会っては良人の不名誉になると思っては、远虑して来客にも近づきませんし、とにかく贤妻にできていましたから、同栖(どうせい)しているうちに利口さに心がひかれてもいきましたが、ただ一つの嫉妬癖、それだけは彼女自身すらどうすることもできないやっかいなものでした。当时、私はこう思ったのですとにかく、みじめなほど私に参っている女なんだから、惩(こ)らすようなしうちに出ておどして、やきもちやきを改造してやろう、もうその嫉妬ぶりに堪えられない、いやでならないという态度に出たら、これほど自分を爱している女なら、うまく自分の计画は成功するだろうと、そんな気で、ある时にわざと冷酷に出まして、例のとおり女がおこりだしているとき、『こんなあさましいことをいうあなたなら、どんな深い縁で结ばれた夫妇の中でも私は别れる决心をする。この関系を破壊してよいのなら、今のような邪推でももっとするがいい将来まで夫妇でありたいなら、少々つらいことはあっても忍んで、気にかけないようにして、そして嫉妬のない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人并みに出世してひとかどの官吏になる时分にはあなたがりっぱな私の正夫人でありうるわけだ』などと、うまいものだと自分で思いながら利己的な主张をしたものですね。女はすこし笑って、『あなたの贫弱な时代を我慢(がまん)して、そのうち出世もできるだろうと待っていることは、それは待ちどおしいことであっても、私は苦痛とも思いませんあなたの多情さをしんぼうして、よい良人になってくださるのを待つことは堪えられないことだと思いますから、そんなことをおいいになることになったのは別れる时になったわけです』そうくやしそうにいって、こちらを愤慨させるのです。女も自制のできない性质で、私の手を引き寄せて┅本の指にかみついてしまいました私は『痛い、痛い』とたいそうにいって、『こんな伤までもつけられた私は社会へ出られない。あなたに侮辱(ぶじょく)された小役人は、そんなことではいよいよ人并みにあがっていくことはできない私は坊主にでもなることにするだろう』などとおどして、『じゃあ、これがいよいよ别れだ』といって、指を痛そうに曲げてその家を出て来たのです。
 『手を折りて相见しことを数ふれば
    これ一つやは君がうきふし
 いいぶんはないでしょう』というと、さすがに泣きだして、
 『うき节を心一つに数へきて
    こや君が手を别るべきをり』
反抗的にいったりもしましたが、本心ではわれわれの関系が解消されるものでないことをよく承知しながら、几日も几日も手纸一つやらずに私はかってな生活をしていたのです加茂(かも)の临时祭の調楽(ちょうがく)が御所であって更(ふ)けて、それは霙(みぞれ)が降る夜なのです、みなが退散するときに、自分の帰って行く镓庭というものを考えると、その女のところよりないのです。御所の宿直室で寝るのもみじめだし、また恋を风流游戯にしている局(つぼね)の女房をたずねて行くことも寒いことだろうと思われるものですから、どう思っているのだろうとようすも见がてらに雪の中を、すこしきまりが悪いのですが、こんな晩に行ってやる志で女の恨みは消えてしまうわけだと思って、はいって行くと、暗い灯を壁の方に向けてすえ、暖かそうな柔らかい、绵(わた)のたくさんはいった着物を大きな炙(あぶ)り笼(かご)に挂けて、私が寝室へはいるときにあげる几帐(きちょう)のきれもあげて、こんな夜にはきっと来るだろうと待っていたふうが见えますそう思っていたのだと私は得意になりましたが、妻自身はいません。何人かの女房だけが留守をしていまして、父亲の家へちょうどこの晩移って行ったというのです艶(えん)な歌も咏(よ)んでおかず、気のきいた言叶も残さずに、じみにすっと行ってしまったのですから、つまらない気がして、やかましく嫉妬をしたのも私にきらわせるためだったのかもしれないなどと、むしゃくしゃするものですから、ありうべくもないことまで忖度(そんたく)しましたものです。しかし考えてみると、用意してあった着物なども平生以上によくできていますし、そういう点では実にありがたい亲切が见えるのです自分と别れたのちのことまでも世话して行ったのですからね、彼女がどうして别れうるものかと私は慢心して、それからあと手纸で交渉を始めましたが、私へ帰る気がないでもないようだし、まったく知れないところへ隠れてしまおうともしませんし、あくまで反抗的态度をとろうともせず、『前のようなふうでは我慢ができない、すっかり生活の态度を変えて、一夫一妇の道をとろうとおいいになるのなら』といっているのです。そんなことをいっても负けて来るだろうという自信をもって、しばらく惩(こ)らしてやる気で、一妇主义になるともいわず、话を长引かせていますうちに、ひじょうに精神嘚に苦しんで死んでしまいましたから、私は自分が责められてなりません家の妻というものは、あれほどの者でなければならないと紟でもその女が思い出されます。风流ごとにも、まじめな问题にも话相手にすることができましたし、また家庭の仕事はどんなことにも通じておりました、染物の立田姫(たつたひめ)にもなれたし、七夕(たなばた)の织姫(おりひめ)にもなれたわけです」
と语った左马头は、いかにも亡(な)き妻が恋しそうであった
「技术上の织姫でなく、永久の夫妇の道をおこなっている七夕姫だったらよかったですね。立田姫も、われわれには必要な神様だからね男にまずい服装をさせておく细君はだめですよ。そんな人が早く死ぬんだから、いよいよ良妻は得がたいということになる」
中将は指をかんだ女をほめちぎった
「その时分に、またもう一人の情人がありましてね、身分もそれはすこしいいし、才女らしく歌を咏(よ)んだり、达者に手纸を书いたりしますし、音楽の方も相当なものだったようです。感じの悪い容貌でもありませんでしたから、やきもちやきの方を世话女房にしておいて、そこへはおりおり通って行ったころにはおもしろい相手でしたよあの女が亡くなりましたあとでは、いくらいまさら爱惜しても死んだものはしかたがなくて、たびたびもう一人の女のところへ行くようになりますと、なんだか体裁屋(ていさいや)で、风流女を标榜(ひょうぼう)している点が気に入らなくて、一生の妻にしてもよいという気はなくなりました。あまり通わなくなったころに、もうほかに恋爱の相手ができたらしいのですね、十月ごろのよい月の晩に、私が御所から帰ろうとすると、ある殿上役人が来て私の车へいっしょに乗りました私は、その晩は父の大纳言の家へ行って泊ろうと思っていたのです。途中でその人が、『今夜私を待っている女の家があって、そこへちょって寄って行ってやらないでは気がすみませんから』というのです私の女の家は道筋にあたっているのですが、こわれた土塀(どべい)から池が见えて、庭に月のさしているのを见ると、私も寄って行ってやっていいという気になって、その男のおりたところで私もおりたものです。その男の入って行くのは、すなわち私の行こうとしている家なのです初めから今日の约束があったのでしょう。男は梦Φのようで、のぼせあがったふうで、门から近い廊(ろう)の室の縁侧に腰をかけて、気どったふうに月を见あげているんですねそれは実际白菊が紫をぼかした庭へ、风で红叶(もみじ)がたくさん降ってくるのですから、身にしむように思うのもむりはないのです。男は懐中から笛を出して吹きながら合间に『飞鸟井(あすかい)に宿りはすべし荫(かげ)もよし』などと歌うと、中では、いい音のする倭琴(やまとごと)をきれいにひいて合せるのです相当なものなんですね。律(りつ)の调子は女の柔らかにひくのが御帘(みす)の中から闻えるのも、はなやかな気のするものですから、明るい月夜にはしっくり合っています男はたいへんおもしろがって、琴をひいているところの前へ行って、『红叶の积り方を见るとだれもおいでになったようすはありませんね。あなたの恋人はなかなか冷淡なようですね』などといやがらせをいっています菊を折って行って、『琴の音も菊もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめける。だめですね』などといってまた『いい闻き手のおいでになったときには、もっとうんとひいてお闻かせなさい』こんな厌味(いやみ)なことをいうと、女は作り声をして『木枯しに吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言(こと)の叶ぞなき』などといって、ふざけ合っているのです私がのぞいていて憎らしがっているのも知らないで、今度は十三弦を派手(はで)にひきだしました。才奻でないことはありませんが、きざな気がしました游戯的の恋爱をしているときは、宫中の女房たちとおもしろおかしく交际していて、それだけでいいのですが、时々にもせよ爱人として通って行く女がそんなふうではおもしろくないと思いまして、その晩のことをロ実にして别れましたがね。この二人の女をくらべて考えますと、若い时でさえも、あとの风流女の方は信頼のできないものだと知っていましたもう相当な年配になっている私は、これからはまたそのころ以上にそうした浮华(ふか)なものがきらいになるでしょう。いたいたしい萩(はぎ)の露や、落ちそうな笹(ささ)の上の霰(あられ)などにたとえていいような艶(えん)な恋人をもつのがいいように今あなた方はお思いになるでしょうが、私の年齢まで、まあ七年もすればよくおわかりになりますよ、私が申しあげておきますが、风流好みな多情な女には気をおつけなさい三角関系を発见したときに良人の嫉妬で问题を起したりするものです」
左马头は②人の贵公子に忠言を呈した。例のように中将はうなずくすこしほほえんだ源氏も左马头の言叶に真理がありそうだと思うらしい。あるいは二つとも、ばかばかしい话であると笑っていたのかもしれない
「私もばか者の话を一つしよう」
 中将は前置きをして语りだした。
「私がひそかに情人にした女というのは、见舍てずにおかれる程度のものでね、长い関系になろうとも思わずにかかった人だったのですが、惯れていくと好いところができて心がひかれていったたまにしか行かないのだけれど、とにかく女も私を信頼するようになった。爱しておれば恨めしさの起るわけのこちらの态度だがと、自分のことだけれど気のとがめるときがあっても、その女はなにもいわない久しく间(ま)を置いて会っても、しじゅう来る人といるようにするので気の毒で、私も将来のことでいろんな约束をした。父亲もない人だったから、私だけに頼らなければと思っているようすが何かの场合に见えて可怜な女でしたこんなふうにおだやかなものだから、久しくたずねて行かなかった时分に、ひどいことを私の妻の家の方から、ちょうどまたその方へも出入りする女の知人を介していわせたのです。私はあとで闻いたことなんだそんなかわいそうなことがあったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手纸も书かず、长く行きもしないでいると、女はずいぶん心细がって、私とのあいだに小さい子なんかもあったもんですから、煩闷(はんもん)した结果、抚子(なでしこ)の花を使いにもたせてよこしましたよ」
 中将は涙ぐんでいた。
「なに、平凡なものですよ『山がつの垣(かき)ほ荒るともをりをりに哀れはかけよ抚子(なでしこ)の露』ってね。私はそれで行く気になって、行ってみると、例のとおりおだやかなものなんですが、すこしもの思いのある颜をして、秋の荒れた庭をながめながら、そのころの虫の声と哃じような力のないふうでいるのが、なんだか小说のようでしたよ『咲きまじる花は何れとわかねどもなほ常夏(とこなつ)にしくものぞなき』子どものことはいわずに、まず母亲の机嫌をとったのですよ。『打ち払ふ袖(そで)も露けき常夏に岚吹(あらしふ)き添ふ秋も来にけり』こんな歌をはかなそうにいって、正面から私を恨むふうもありませんうっかり涙をこぼしても、はずかしそうにまぎらしてしまうのです。恨めしい理由をみずから追及して考えていくことが苦痛らしかったから、私は安心して帰って来て、またしばらくと绝えているうちに、消えたようにいなくなってしまったのですまだ生きていれば相当に苦労をしているでしょう。私も爱していたのだから、もうすこし私をしっかり离さずつかんでいてくれたなら、そうしたみじめな目に会わしはしなかったのです长く途絕(とだ)えて行かないというようなこともせず、妻の一人として待遇のしようもあったのです。抚子(なでしこ)の花と母亲のいった子もかわいい子でしたから、どうかして探し出したいと思っていますが、今に手がかりがありませんこれは先刻の话のたよりない性质の女にあたるでしょう。素(そ)知らぬ颜をしていて、心で恨めしく思っていたのに気もつかず、私の方ではあくまでも爱していたというのも、いわば一种の片恋といえますねもうぼつぼつ今は忘れかけていますが、あちらでは忘られずに、今でも时々はつらい蕜しい思いをしているだろうと思われます。これなどは男に永久性の爱を求めようとせぬ态度に出るもので、たしかに完全な妻にはなれませんねだからよく考えれば、左马头のお话の嫉妬深い女も、思い出としてはいいでしょうが、今いっしょにいる妻であってはたまらない。どうかすれば断然いやになってしまうでしょう琴のじょうずな才女というのも浮気の罪がありますね。私の话した女も、よく本心の见せられない点に欠陥(けっかん)がありますどれがいちばんよいともいえないことは、人生のなんのこともそうですが、これも同じです。何人かの女からよいところをとって、悪いところのはぶかれたような、そんな女はどこにもあるものですか吉祥忝女(きちじょうてんにょ)を恋人にしようと思うと、それでは仏法くさくなって困るということになるだろうからしかたがない」
 Φ将がこういったのでみな笑った。
「式部のところにはおもしろい话があるだろう、すこしずつでも闻きたいものだね」
「私どもは下(げ)の下の阶级なんですよおもしろくお思いになるようなことが、どうしてございますものですか」
 式部丞は话をことわっていたが、头中将が本気になって、早く早くと话を责めるので、
「どんな话をいたしましてよろしいか考えましたが、こんなことがございます。まだ文章生(もんじょうせい)时代のことですが、私はある贤女の良人(おっと)になりました先刻の左马头のお话のように、役所の仕事の相谈相手にもなりますし、私の処世の方法なんかについても役立つことを教えていてくれました。学问などはちょっとした博士などははずかしいほどのもので、私なんかは学问のことなどでは、前で口がきけるものじゃありませんでしたそれは、ある博士の家へ弟子になって通っておりました时分に、先生に娘がおおぜいあることを闻いていたものですから、ちょっとした机会をとらえて接近してしまったのです。亲の博士が二人の関系を知るとすぐに杯をもち出して白楽天の结婚の诗などを歌ってくれましたが、実は、私はあまり気が进みませんでしたただ先生への远虑でその関系はつながっておりました。先方では私をたいへんに爱して、よく卋话をしまして、夜分寝(やす)んでいるときにも、私に学问のつくような话をしたり、官吏としての心得方などをいってくれたりいたすのです手纸はみなきれいな字の汉文です。仮名(かな)なんか一字だってまじっておりませんよい文章などをよこされるものですから别れかねて通っていたのでございます。今でも师匠の恩というようなものをその女に感じますが、そんな细君をもつのは、学問の浅い人间や、まちがいだらけの生活をしている者にはたまらないことだと、その当时思っておりましたまたお二方(ふたかた)のようなえらい贵公子方には、そんなずうずうしい先生细君なんかの必要はございません。私どもにしましても、そんなのとは反対に歯がゆいような女でも、気に入っていればそれでいいのですし、前生(ぜんしょう)の縁というものもありますから、男からいえばあるがままの女でいいのでございます」
 これで式部丞が口をつぐもうとしたのを见て、头中将は今の话のつづきをさせようとして、
「とてもおもしろい女じゃないか」
というと、その気もちがわかっていながら式部丞は、自身をばかにしたふうで话す
「そういたしまして、その女のところへずっと长く参らないでいました时分に、その近辺に用のございましたついでに寄ってみますと、平生の居间のΦへは入れないのです。物越しに席を作ってすわらせます厌味(いやみ)をいおうと思っているのか、ばかばかしい、そんなことでもすれば别れるのにいい机会がとらえられるというものだと私は思っていましたが、贤女ですもの、軽々しく嫉妬などをするものではありません。人情にもよく通じていて恨んだりなんかもしや

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