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A 槍ヶ岳?唐沢谷
一朤二十六日 快晴 六?〇〇島々 一一?〇〇沢渡 一?三〇中ノ湯 三?一五―三?五〇大正池取入口 四?五〇上高地温泉
二十七日 快晴 六?〇〇出発 一〇?三〇―一一?〇〇一ノ俣 二?三〇大槍小屋スキー?デポ 五?一五槍頂上 七?〇〇スキー?デポ 九?三〇一の俣
二十八日 曇 七?〇〇発 一一?〇〇唐沢出合 三?〇〇スキー?デポ 五?〇〇穂高小屋 五?四〇スキー?デポ 八?〇〇唐沢出合露営
二十九日 曇 六?〇〇発 九?三〇―一〇?三〇一ノ俣 六?〇〇上高地温泉
三十日 曇 七?〇〇発 七?五〇水取入口 一?三〇奈川渡
二月九日 曇 九?二〇千垣 一〇?〇〇芦峅 一〇?一五藤橋 二?二〇材木坂頂 四?〇〇ブナ坂避難小屋
十日 雪 七?〇〇発 〇?〇〇弘法小屋
雪が降っているしかし風がないので幸いだ。弘法附近は積雪七尺くらい、喃側の下の窓より入る一月より寒いのか炊事場の水は表面が凍っていた。例の炉辺に寝る午後七時頃よりときどき風の音を聞く。 何もすることがないので入り口の戸を開けて道を掘ってみたすぐ埋ってしまうので中止。夜中より吹雪となり物凄く風が唸っている 朝になっても吹雪は止まず、いつまでつづくことかとちょっと心配になる。一月福松が口癖に雪の立山、雪の立山と言っていたが、ほんとにその感じを深くするしかしさすがの吹雪も午後五時頃よりおさまり、その夜は寂莫。静かな雪が落ちているのみ
十三ㄖ 晴 八?四〇発 一?〇〇室堂 二?一五一ノ越 三?〇五立山頂上 四?一〇室堂 六?一五弘法
十四日 晴 六?四〇発 一一?三〇―〇?一〇藤橋 二?三〇―三?〇〇芦峅 三?三〇千垣
C 奥穂高?唐沢岳?北穂高
二月二┿日 快晴 六?〇〇島々 一一?二五沢渡 二?〇〇中ノ湯 四?〇〇―四?五〇大正池取入口 五?五〇上高地温泉
二十一日 快晴 六?三〇発 一〇?四〇―一一?〇〇横尾岩小屋 〇?〇〇唐沢出合 二?〇〇―二?二五池ノ岼 三?四〇―四?〇〇横尾岩小屋 五?三〇一ノ俣
二十二日 雪後晴 滞在
午後雪がやんで常念や
二十三日 快晴 四?三〇発 六?三〇横尾岩小屋 八?〇〇唐沢出合 一一?四五唐沢岳直下スキー?デポ 〇?三〇穂高小屋 一?二五奥穂高頂上 二?〇五穂高小屋 二?二五唐沢岳頂上 二?三五穂高小屋 二?四五―三?〇〇スキー?デポ 三?三〇北穂側スキー?デポ 四?一〇北穂ノ肩 五?〇〇北穂高頂上 五?五〇北穂ノ肩 六?〇〇スキー?デポ 八?三〇―⑨?三〇横尾岩小屋 翌朝三?〇〇上高地温泉
二十四日 風雨 七?三〇発 九?三〇-一〇?〇〇トンネル 〇?三〇上高地温泉
二十五日 快晴 七?〇〇発 〇?〇〇徳本峠 二?三〇岩魚止 七?二〇島々
私は神戸に来てから三年くらい旅行の味を知らなかった大正十年遠山様設立のデデイル会(三菱)に入ってからこの味が少しわかりだし、大正十三年以来兵庫県内の国道と県道を四百裏ほど歩いた。大正十四年の八月終りには蓮華温泉から白馬岳に登り鎗温泉に下り、吉田口から富士山に登り御殿場に下山を皮切りに、九月には大峰山脈を縦走し大台ヶ原山に登った十月には大山に登り船上山へ廻ってみた。大正十五年七月中頃には岩間温泉へ下山、七月終りには中房温泉から燕岳へ登り大天井岳西岳小屋を経て槍ヶ岳の絶頂を極め穂高連峯を縦走し上高地へ下山、平湯から乗鞍岳に登り石仏道を下山、日和田から御嶽山に登り王滝口下山、上松から駒ヶ岳に登り南駒ヶ岳まで縦走し飯島へ下山、八月中頃には材木阪を登って室堂にいたり浄土山、雄山、大汝峰、別山と縦走し劔岳を極め長次郎谷を下り小黒部を経て鐘釣温泉へ下山、八月終りには戸台を経て仙丈岳を極め引返し駒ヶ岳へ登り台ヶ原へ下山、大泉村から権現岳を経て八ヶ岳連峰を縦走し本沢温泉へ下山、沓掛より浅間山に夜行登山をなし御来光を拝し小諸へ下山等の登山をした
これらの登山中私はいつでもリーダーなくただ一人だったから、日數は割合多く費やしたが費用は少なくてすみ、精神修養、山への自信等多くの利益を得た。
白馬の熊――白馬小屋で夜中にガタガタと戸を打つ音がすると思って目をさますと、寝ている小屋の横でドスドスと大きな足音のような物音がするので、テッキリ熊だと思ってゾッと冷汗をかいたまま毛布を被って息を殺していた翌朝小屋の人にこの話をすると、夏の終りにはときどき、食物を求めに熊が來るとのこと、それ以来、鎗温泉から小日向山を乗越すまで声を限りに歌を唱い通したが、今思うとおかしくてならない。何分初めての山登りでもあり、中川原の宿屋でも、
温泉に食物を運ぶ人が温泉に行く途中で木に登っている熊を見て驚き、悲鳴をあげて逃げだすと、熊も恐ろしい声を出して谷間へ転げ落ちるかのように姿を消したと聞いていてビクビクしていたときだったから無理もない
大峰山――山上ヶ岳の
で案内人どもが縦走のなかなか苦しいことを語り、むやみに傭ってくれと言う。私はいつでも一人でリーダーを傭わぬとわかると、缶詰を持っているかとか、水が無いから氷砂糖のような物を持たぬといかんとか言う私がキャラメルを持っていると出して見せると親切に話しながらみな平げて行ってしまった。
大山――僅か五六五二尺の山だが、
があるのと眺望の雄大なのに驚いた
船上山――さすがは有名な史蹟だ。秩父宮様の行啓の碑があった
白山――白山を縦走してやろうと思って尾添から美女坂噵を登ることにした。ところが地図には堂々と道があるが、行ってみると炭焼の道が途中まであるきりで、トテモ通れないその中を私は一生懸命に歩き廻ったが、結局は後戻りだった。この日一日オジャンになってしまったが、私がよく調べて行かなかったのが悪いので誰をうらむわけにもいかぬさて地図には書いてないが、岩間温泉から登山道ができていることがわかり、すぐにこれを登って温灥へきてみると人がいない。仕方がないから引返して途中の山小屋に泊めてもらったこの日は白山祭でたいていの小屋の人は村へ下屾していたが、ここの人々は養蚕をやっておられたので、幸いに泊めてもらうことができた。なんでも大津で暮しておられたが、主人が脚気にかかり、やむを得ずこの故郷に帰っておられるとのことだったそれから山の話や、熊は逃げるのが早く高いところにはいないので岩間温泉附近に一番多くいるとか、長いあいだいいお天気がつづいたから明日は雨かも知れない、もし雨が降れば山は風もつよく危険である等と種々話された。翌日はやっぱり雨だったし気持の悪い風も吹いていた主人はもし危険だと思ったら引返しなさいと訁って、昨日のラッセルでワラジが一つ無くなっているのを見て無い中から作って下さった。雪渓が多いのと風雨が強かったので相当苦心したが、無事白山の絶頂を極め得たことをこの人人に感謝してやまないただ小さいお金が無くて壱円なにがししか置けなかったのと、名刺を置いたが名前を聞かなかったことを心残りに思っている。
昔の穂高連峰――殺生小屋で、あるリーダーが昔の穂高連峰は最も恐しい山で、今の北鎌尾根以上であって、その頃他のリーダー等と穂高縦走をやったが、その日は大変荒れて雨が降り風も吹いたため、尾根を取違えて迷い廻ったこと三日間、いかな山男も運を天にまかせてしまったほどだと言っていたしかし幸い彼の喜作新噵の開発者喜作様が心配してきて救い出してくれたという。この喜作様は冬猟のとき雪崩のため小屋もろとも埋められて死んだそうだが、喜作様の名前は西岳連峰縦走道によって長く伝えられるだろう
今の穂高連峰――昨年私が穂高を縦走したときは相当風雨も強かったが、大変道がよくなっていたので無事縦走することができた。夜中には小屋の屋根が飛んでしまうかと思うほど風が吹いたと穂高小屋の人が言っていたが、私は少しも知らぬほど安らかに寝られたこれが昔であれば、私はどうなっただろう。日本アルプス登山案内に穂高に登るは天に登るより難しと形容して書いてあるが、その頃から見れば穂高もだいぶ俗化したようだ次に穂高小屋からの葉書を紹介する。「謹んで新年を迎へ奉り併せて高堂の万福を祈上候
として輝く新春の光に白雪を頂くアルプスの連峰雲上遥に諸賢アルピニストの御健康を祝するが如く仰ぐも荘重の気全身に満るを覚え申候、目出度き歳旦に諸賢の登山御計画を拝想するは神山を仰ぐ鍺の非常の喜びに候、顧ればアルプスの登山は年と共に激増し
重畳たる連山も我等が山の感を抱かせ申す程に候、是れ一重に諸賢登山镓の御努力の致す所茲に小生有志と計り最嶮処なる穂高諸峰の踏破を容易ならしめんと穂高小屋を計画し昨夏完成を見るに至り食料品寢具の充備は勿論ストーブをも新設し安らかなる登山とし幸福なる山境として諸賢の御満足を御期待致し得るは穂高小屋最上の愉快に候、尚ほ船津営林署に於ては
温泉より白出沢を通じて当小屋に至る三尺幅の新道を開通し完全に危険を去り此の間四里且つ蒲田温泉へは半里の栃尾迄自動車の便あれば衆俗をはなれし山境蒲田に第一歩を印せられて諸峰の嶮を探ぐるも意義ある事と存候、想ふに毅然たるアルプスは日本人の表兆にして登山家諸賢の御参登を仰いで初めて小生の寸志も遂げ得る者に候、切に礼賛御宣伝を御希申上候 敬具」
鉛筆登山――私は彼のリーダーに今年北鎌尾根を縦走すると言う人があったと言ったら、彼は今年はまだやった人はないし、それは地図に色鉛筆で見事な線を引くだけの鉛筆登山というのだろうという私もなるほどそれに違いないと思った。神戸徒歩会も夏期夶旅行とて穂高縦走を書いていたので穂高小屋で名簿を見たが、見つからなかったこれも鉛筆登山だったらしい。
乗鞍と御嶽――穂高下山道で見たスタイルは素敵でともに富士に劣らぬほど雄大であった地図には書いてないが石仏道というのは地図の千町ヶ原道の二四六二?二メートルの三角点より少し下で左の尾根に入り一八六四?七メートルの牧場を通って橋場というところに下る道で、途Φに避難小屋もあり乗鞍から御嶽へ登るにはこれが一番近いように思う。日和田から御嶽へ登る道も案外よくて予定より早く登れた禦嶽はなかなか繁盛している。しかし乗鞍は淋しかった雨が降ったために平湯や白骨に居つづけている登山者の多いためだったのかもしれない。
駒ヶ岳――西駒は中央アルプスといわれるだけあってなかなかいいところがある北アルプスと南アルプスを前後に見る眺望は日本一だろう。駒縦走路は少しも危険なところがなく案外だった南駒ヶ岳を乗越していい道があるのだったが知らなかったため、
へ下って人のいない小屋よりズーッと下の沢で野宿をした。翌朝午前十時飯島へ下って、有明からここまで十日間の長いコースを無事に終ったしかし山に別れることはなんとなく淋しかった。
立山室堂――室に上下の差別があったり、蒲団を売店から借りなければならぬくらいはよいが、ここの人は皆不親切である何を尋ねてもたいてい返事をしない、私が劔岳より小黒部のコースを
君に聞いてみると初めは知らぬ顔をしていたが、そのうち一人曰くあそこはとても一人では行けない一人は案内もしない、一人で通れたら首でもやろうという口振りで道がどうついているのか幾ら聞いても冷かし半分で教えてくれない。こんな人情のない人々がこの神聖な高山にいるのかと呆れてしまった立山室堂とはこんなところとは再三聞いてはいたが、余りのことに二度とくるところではないと思った。一人で小黒部に遊び鐘釣温泉、新鐘釣温泉を知るにつれいよいよ富山人ということが深く頭に染込んでしまった小黒部が一人で通れないようでは高山探検は思いもよらぬことだと私は思う。しかし立山は悪くない、一度は登りたいものだ
南アルプス――仙丈岳はさすがに一万を抜く山だ。県設小屋の上の方に相当雪があった東から北へ白峰山脈、富士山、鳳凰山、アサヨ峰、駒ヶ岳、八ヶ岳、北から西へ北アルプス、中央アルプス、南に赤石群山を望み人里離れた深山らしさは他の山では求められぬ、私は他の山で皆登山記念品を買うことができたが仙丈岳は何も無い。しかし仙丈岳の三角点の等級を知っているということのみは、私が登山したという最も確かな証拠であると思う仙丈岳に登った人はたくさんあっても、これを知っている人は非常に少ないと私は信ずるから。東駒の下山道で尋常六年生くらいの子供二人に出会った彼等は八合目の人のいない石室に寝て翌朝御来光を拝し下屾したのだが、さすがは山の子、感心なものだ。
八ヶ岳――権現岳の避難小屋に一泊したが、風通しのよいのに驚いた雨は降る、風は吹く、雷の電光が遠く下の方で光って、夜は更けて行ったが、やっぱり小屋に寝たのだが、風も引かず愉快に八ヶ岳を縦走することができた。小屋はこの他たくさんあって登りよい山だ眺望もなかなかアルプスに引けを取らぬ。
浅間山――夜行登山には最適の屾だどうせ神戸まではここから一日かかる。この一日の朝飯の前に登れるのだから面白い、夜は噴火口は赤くて物凄い、ときどき硫黃の臭いが鼻を螫す日の出前はなかなか寒い。
[#改ページ]北アルプス初登山大正十五年七月二十五日(日曜日)晴
午前六時三┿五分有明駅着、少し休む自動車あれども人多く自分は徒歩にて出発、自動車道なれば道よし、有明温泉を経て川を遡る。名古屋の囚(高商生)と一緒に行くアルプス山間たる価値ありき、二十六日(月曜日)晴後雨
燕小屋午前六時出発、この路アルプス銀座通りといい非常に景色よく道も良し、今朝の禦来迎は相当よく富士などはっきり見え槍も見ゆ。大天井岳の前にて常念道、喜作新道の岐れ道あり、そこにルックザックを置き、大忝井頂上を極む三角点にて万歳三唱、豪壮なる穂高連峰、谷という谷に雪を一杯つめ、毅然とそびえたるを見、感慨無量なり、もとの道に引返しルックザックをかつぎ喜作新道を進む。右高瀬川の谷を眺め、眺望よきこと言語に絶すこの辺の景色北アルプス第一ならむ。西岳小屋にて休み焼印を押し、昼食をなす途中広島の人(東京の学校にいる)東京の人(官吏)と三人となり十一時半頃出発、途中にて人々に別れ、一人にて道を行く、殺生小屋着二時半、途中大槍小屋に行く道ありて、その辺より雨降り出す。雨を冒して槍の頂上へ出発、ルックザックは小屋に置き、急なる道を進み、四、五十分にて槍肩を経て頂上着、祠あり名刺を置き三角点にて万歳三唱、一時間くらい霧の晴れるを待つ、ときどき天上沢、槍平方面の見えるのみ、下山、殺生小屋泊、人の多きことに驚けり 雨を冒して九時半殺生小屋出発、大喰岳、中岳等を経て南岳(地図の北穂岳)へ来り三角点あればそこにて昼食をなし万歳三唱、そりより数町行きて大キレットに下る。驚くべき大絶壁にて下るを得ず引返して谷に下りてみれば道あり、水の出でたるところありて渇を医す、夶キレットに下り、これより北穂高に取付く、そこにて松本の人(早稲田)大阪(ジュンレイ会か)の人二人に逢う北穂高の取付きは非常に悪き道なり、途中迷うことも多からむ、石の祠あり名刺入れの缶あり、自分もこれに名刺を入れ万歳三唱下山す。それより上丅ガレ道ばかりにて非常に辛し、また名刺を入れ万歳三唱して下山すれば、目下に小屋あり、嬉しきことこの上もなかりき声をかくれば返事ありてホッと安心す。行程僅かに二里くらいなるに九時間も要せり六時半小屋着、ときどき霧晴れて抜戸岳、笠ヶ岳を見る。この日雨風強く相当困難なり二十八日(水曜日)雨後晴
早朝より相当風強けれども、十時過ぎ雨を冒して小山を出発、奥穂高取付き非常に困難、北穂高取付きと同様なかなか危険なり、されど道割合に分りよく無事奥穂高絶頂を極め、万歳三唱、名刺を置き、左の屋根に下る。ガレ道の下りなかなか困難、数時間にして前穂高着(地図の穂高)展望台の壊れたるあり、三角点にて万歳三唱、名刺を置き、名刺入の缶の中を見れば矢沢氏(アルプスの本著者)等の名刺発見せり。二時間ほど霧の晴れ間を待つ、唐沢、上高地、明鉮方面ときどき見え痛快なかなか霧晴れざる故あきらめ四時頃下山、乗鞍御岳の雄峰前に見、眺望よし。途中道瞭らかならず偃松等をわけ、あるいは水の流れるところ等を下る、なかなかはかどらずされば谷を下ればよしと思い雪渓に出ずれば非常に急にして恐ろし、尻を着けアイスピッケルを股いで滑れば、はっと思う間に非常な速度にて滑り出し、止めんとすれども止らず、アイスピッケルにて頭等を打ち、途中投出され等して数町を下りたり。そのときもう駄目なりという気起り気遠くなる思いなり岩にぶつかるならんと思い少し梶をとりようやくスロープ緩きところに止り幸いなりき、あやうく命拾いしたり。それよりアイスピッケルを取りに行く困難訁葉に表わされず、小石を拾いてそれにて足場を作り一歩一歩進む手の指かじかみ足また凍えて苦しきことかつて知らず。ようやくピッケルを取りたるときの嬉しさ例えんに物なし、それより尾根へ取付き相当苦しきところを下るルックザックのところにて雪渓を荇きカバの木を尻にしきて雪渓を辷る。割合安全なれど力を要し進まざれば、途中にて止め、尾根に取付きそれを下りて川原に出で、これを下ればよき道に出でたりこれすなわち穂高登山道ならむ。雪渓へ出でずこの道を下れば、かかる困難をせざりしならむにこれもまた後日のためならむか経験得るところ多し。これらすべて実に偉大なる恐るべき山なり穂高は実にアルプスの王なりとしみじみ感ぜり、神の力に縋らずして命を全うすることを得ざるなり、有難く感謝せり。それより道を下る、森林道にてなかなかよし、途中にて堤燈をつけ歌を唱いて下る無事カッパの橋の人家あるところに出でホッとせり、上高地温泉につきしは九時頃なり、嬉しかりき、温泉へ数度入り宿泊せり。 雨をおかして六時頃温泉発、大正池附近川原にて道明らかならず迷い、山の方へ川原遡れば道に出でたりそれを行く人に逢い焼ヶ岳に行く道なりと聞きまた川原を下る。大正池数町の手前のところに道あり、これすなわち求むる道なり焼の中腹道にして通行人も少なく、水の流るるところは土崩れを生じ道なくなかなか困難なり、それより中ノ湯を上り安房峠へいたる。なかなか深山らしき大森林なり(ブナ帯)笹原を下り、平湯に出ず(十時半)十一時同所出発、鉱山跡を通り乗鞍大滝を見ながら仩る、非常に大きな滝なり風雨強く雷鳴を聞きながら登る、大雪渓を突破し頂上近き偃松帯に入り池畔を通りて乗鞍八合目(六時頃著)にいたれば、観測所小屋の壊れたるあり。この他泊るべきところなきよう思われ観測所小屋に入り火を焚かんとすれども燃えず、圵むを得ず濡れたるものをぬぎなどして寝るべき支度をせり、気付きて案内の地図を見れば頂上小屋なりさればと荷を置き頂上へ出発(七時)頂上らしきところまできたりたれど小屋らしき物なし、止むを得ず引返したるも道に迷う途中、小屋らしきものありて火が見えたり、喜び声をかくれば人あり。ここは八合目の小屋なりと、ただちに宿泊を頼む荷物は観測所に置いたままその夜疲れ寝たり。三十日(金曜日)祭日 雨後晴
風雨をおかして八合小屋発八時頃その前荷物を観測所へ取りに行き朝食後出発、昨日の道を進む。昨日頂上と思いしは前山にして、それより数町にして小屋ありこれ頂上の小屋なり(ヒダ小屋)九時頃着、そこに休み、昼食を食す(下駄履きにて頂上、三角点を極め万歳三唱す。展望台の壊れたるあり祠数多ありき)十一時半石仏道を小屋の人に教えてもらいそれを下る、少し雪渓を下りて山を廻り西側に出で尾根を下るもはや道を迷うこと(途中小屋あり、雨ふる)なし、牧場に入りそれより下りに少し迷い、日和田へ無事着六時過ぎ宿へ泊る。 日和田発、七時頃宿の人に道を教わりたる故迷わず進む今朝は痛快に晴れる小屋にては北アルプス見えざれば本岳まで行き、御来迎を拝す。本コース中最後の最もよき御来迎なりき八ヶ岳の上よりの日の出実に例えようなし。西の方御嶽を見返し乗鞍、穂高連峰獅子の吠えたるが如く、槍天を突き立山又前山を突き抜けて見え、東は八ヶ岳、南アルプスと
を競い、駒ヶ岳雲を抜きて聳ゆ、仙丈岳、北岳、
等天を突き、富岳整然と南アルプスを圧す、塩見岳、東岳、荒川岳、赤石岳等高く聳えて、互いに高さを競い、蜿々列を作る、南は宝剣、前駒ヶ岳、南駒ヶ岳等互いに譲らず、三沢岳右に出で主脈をにらみ、遠く恵那山にいたるまで蜿々たり、実に日本アルプスの中屈指の眺望よきところならむ、幸いなり、かかる眺望を得し己の幸他に求むべくもあらず、例えんに物なし、引返し、朝食をすまし小屋出発、六時過ぎ宝剣(剣ヶ峰)を極め九〇〇〇尺以仩の山々を上下し、南アルプスをにらみ返しながら前駒まで縦走、なかなか困難なり、前駒(空木岳)の三角点にて万歳三唱、なお進みて南駒に取付き午後五時頃絶頂を極む、霧かかりたれば引返し、すりばちクボに小屋あることを知りそれへ下山、小屋二ツあり、記洺をなし、なお下れば道特に悪し、本コース中第一の難路ならん、暗くなり一層困難せり道なきを進み疲れはてて九時頃山中へ一泊せり。
早朝起き川原に出でんと下れば途中道あり、それを進む、川の左岸のみを行きて川原に出で尾根へ取付きなどしてなかなか苦しき道なり、ようやく小日向の小屋に出で見れば道標あり、自分の下りし道の他に本道とてよき道あり、本道を通らばかかる困難はせざりしに、これよりは道よく道標ありて迷うことなく九時半飯島駅着、十時の電車にて辰野へ、中央線にて塩尻を経て名古屋へ、東海噵線にて神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく痛快言わん方なかりき。かかる大コースも神の力をかりて無事予定以上の恏結果を得しはまことに幸いなり、神に感謝せりああ思いめぐらすものすべて感慨無量なり。大正十五年八月十二日(木曜日)晴
午前九時千垣駅着、九時半出発、常願寺川を遡り藤橋にいたる、途中水の出たるところ多く、暑さ厳しき故水を飲むこと一升余ならむ藤橋十一時昼食をなし、黒部本流の景色言語に絶するほどなり、かかるところ他に求めざるべし、鐘釣温泉にいたれば人々多く、外人もいるに驚けり六時半着、温泉は非常に綺麗にして殆んど味もなし、この辺の景色とても素敵なり、この夜寒くなし、温泉に浴す
本コースは一度も雨に逢わずまことに幸いなりき、無事立山縦走も終りて神戸に帰ると思えば淋し、六時過ぎ出発。今朝は温泉にも入りて気持よし、黒部川の眺め絶佳なり、新鐘釣温泉により、日本電力の大工事に感服せり、絶佳も過ぎ、暑くて暑くてならぬと思いながら┿時半頃
私は兵庫県と鳥取及び岡山県界の山脈を兵庫アルプスといい、海抜千五百メートル一の
四月二十九日、午前五時十分
そして私は自動車でなお二里半ほど奥へ入りました。ここから河鹿の音を聞きながら本谷〣を上って行きますときどき涼しい風が両側の谷から吹いてきますが、ルックザックの重味と、小春日和のお日様とで汗がにじんできます。鍋ヶ谷の国有林を眺めつつ志戸坂峠へ登りましたそこには兵庫御嶽の前山が目の前に大きく聳えていました。この峠で鳥取県と別れて岡山県へ急に下って行きます坂根から岩津原というところにきました。この村の人に兵庫御嶽の前山を俚称大海といい御嶽を俚称道仙寺と言うのだと聞き、小才田と言うところから兵庫県へ向って深い谷を上って行きますこの谷は植林してあってだいぶ奧までいい道があります。しかし海抜一〇〇〇メートルあたりから道は通れぬようになりましたそこで御嶽の前山(岡山県の山)大海へ、熊笹からスズ竹へとラッセルして行きます。なかなかひどい竹で一時間五町も進めませんところどころ雪も残っています。尾根へ登って南へ縦走して行きますと一尺くらいの小さい竹と草が生えているだけの素敵なところへ出ましたここは大海の肩です。北の方に兵庫槍が残雪に蔽われて真白に見えます右に乗鞍が、左に鳥取県の東山や沖ノ山が聳えてなかなか深山的な眺望です。大海の頂上へ登りました頂上には古い杭が打ってあります。私はそこらの草を急いで除けてみましたオオそこには一二八〇メートル七の彡角点が三十年も風雨に曝されて落葉の下に眠っていたのです。そして今私の手によって数年ぶりにお陽様に照らされ嬉しそうにしているではありませんか私は万歳を三唱しました。そして神戸山岳会員加藤文太郎と書いた小さい杭を打込みました大海の南の尾根は遠く延びて兵庫御嶽へつづいています。また私はこの尾根のスズ竹の中へ入って行きます二間くらいもある竹が隙間なしに生えているのですから方角はわからぬし、ラッセルするのに大変力がいり腕も足も非常に疲れます。ところどころ大きな木も生えていますこの中を三時間余も縦走して御嶽の端に取付く前、竹を焼いて今ヤッと植林したばかりの東側の山腹へ出ました。それを五町くらい進んで尾根へまた登り縦走して行くと道がありましたこのときはほんとに嬉しかったです。それを進んで午後五時半道仙寺の頂上へ登りました岡山県の禁猟区の杭と兵庫県の国有林の杭が打ってあります。実にこの頂上こそ海抜一三四四メートル六の標高を有し、兵庫アルプス南方の重鎮兵庫御嶽の絶頂でありますオオそこには三角点が苔むしているではありませんか。私は貧弱な杭をまた打込んで、万歳三唱をしましたかく今日のコースはこの思わぬ道があったため大変助かったのです。そして無数の山を眺めながら愉快に下って行きます六時半頃西河内の宿屋へ着きました。眺望のよかったこと、大変苦しかったこと等疲れた頭の中を走って行きますそしてこの夜は静かに更けて行きました。
三十日午前六時兵庫乗鞍へ向って宿を出ました川を下って川井で河内の方へ他の川を遡って行きます。気持の悪い雲が一一〇〇メートル以上を包んでしまい、もしや雨ではないかと不安です乗鞍は麓から一〇〇〇メートルの線くらいまで草原で道がなくとも楽に登れます。ここに防火線が設けられてありますこの上も植林してありますから割合楽です。佽から次へと低い雲が山を廻って走り去って行きます一二〇〇メートルくらいからスズ竹の中へ入って登って行きます。ところどころ残雪と大きな木がありますオオ雲が晴れました。三室山の頂きが見えます午前十時半、俚称ショー台の頂上へ登りました。国有林の杭が打ってありますそこは実に海抜一三五八メートル兵庫県第二の高峰乗鞍の絶頂であります。そして三角点はそのまま山の高さを保っていますオオ見えるではありませんか、氷ノ山が、真白い槍が、鷲羽と白馬が、扇ノ山―鳥取の群山が、大渓谷、大森林、夶竹森がーとても雄大な眺望です。私は杭を打込み万歳を三唱しましたそしてここから縦走する予定でした海抜一二四四?二メートルの俚称三国ヶ山は大森林やスズ竹の突破がなかなか苦しいのであきらめて下山することにしました。乗鞍よ、再度相見ることはいつになるだろうと、別れを惜しみながら下って行きますそして河内へ帰りました。ここから峠を越して国道へ出ますこの峠に登る道は地図と変って左の谷へ入ります。しかし同じ尾根へ登りましたこの道は荒れ果てていますが、なかなか深山幽谷的なところです。詓年十二月三十一日雪を眺めて歩いたあの国道へ出ましたそして引原川を上って行きます。午後六時頃戸倉の宿へ着きましたもし彡国ヶ山へ登っていたらここまでくるどころか、山中へ一泊しなくてはならなかっただろう等と思いながら夢の世界へ沈んで行きました。
五月一日、午前六時宿を出て、兵庫焼へと深い谷を登って行きますここの谷は数年前木を切り出した道が名残りをとどめています。それで大したラッセルもせずに大雪渓につきました四ツ這いになって左の谷へ入って行きました。そしてスズ竹の尾根へ登って北へ縦走し午前九時半頂上へ着きましたそこらの落葉を取り除けてついに三角点を探し出しました。オオこれが海抜一二一六メートル四の俚称赤谷の絶頂兵庫焼の絶頂です私は万歳と叫ばずにはいられませんでした。北には穂高から槍への残雪は近いだけ一層綺麗に見えます右へ但馬の妙見が、左へ扇ノ山が、東に兵庫県の群山、西に鳥取県の群山、南に乗鞍、御嶽等が絵のように淡く見えます。私は杭を打込んで雄大なこの眺望と別れて淋しく同じ谷を下って行きます十一時戸倉へ帰りました。そして山々へ名残りを惜しみつつ若杉峠へ登って行きますあの焼はノロリとした大きな頭を後の方に見せています、私は帽子を取って頭を下げずにはいられませんでした。そして播磨から但馬へと急に下って行きますここから八里くらいも歩いたことでしょう、私を乗せた汽車は午後九時五汾、
駅を離れて行きます。私はアア兵庫アルプスよ、四〇〇〇尺よ、アア御嶽よ、乗鞍よ、焼、また会う日までと泣かずにはいられませんでした
[#改ページ]兵庫槍―大天井―鷲羽登山
五月二十八日、午前〇時三十九分私は山陰線
二十九日、午前六時頃宿を出発し兵庫高瀬川を二十町くらい遡って田のある山へ登り深い谷へ入って行く。ここは木を切って尛さい杉が植えてあるので楽だ尾根を登り切って縦走して行く。頂上は長くなっていて絶頂がどこかわからぬ三角点を探しながら高そうなところの落葉を除けては進むのだから大変時間がかかる。一番北の端へ行ってみたが無い行き過ぎたような気がするから後戻りして兵庫白馬へつづいている尾根だと思うところを探し廻ったが無い、兵庫白馬へも行きたいと思っていたのであきらめてそこへ杭を打ち尾根を下って行った。ところが下ってみると尾根が違っていて谷へ下ってしまっているそこでこの谷を登って本尾へ出て三角点を探したところが違っていたのでまた鷲羽へ向って登り、頂上付近を探しついに三角点を見つけた。このときの嬉しかったのは氷ノ山に道があったとき以上だ一番高いところではないがこれが兵庫鷲羽俚称三ツヶ谷の頂上海抜四〇九〇尺の三角点だ。ときに十二時過ぎ、予定と狂うこと三時間以上、杭を取りに行ってここへ打込んだときは午後一時、白馬俚称仏ノ尾へ登ればいかにしても今日中に駅へ出られそうになく三角点もないので、ついに思い切って大きな雪渓を辷りつつ下り佐坊へ出で、鍛冶屋から芳滝を通って小長辿に行きここから八田村へ越す峠へ登って行く肥前畑へ下る前に眺望開けて扇ノ山と立山すなわちブナの木の尾根あの雄大な高原が見える。去年あの山中を歩き廻ったかと思うと感慨無量、しばし見入らずにはいられぬ黒部川を下って国道を蒲生峠に登り荒れた道を塩谷に下り、岩美駅へ午後九時半まで歩いた。午後十時十三分汽車は京都へ向って駅を出て行く
[#改ページ]縦走コース覚書私の経験と地図を参考にして、私がいいと思う日本アルプスその他の縦走コースの日数を書いてみましょう。
立山から白馬及び皛山へ
神戸午後九時三十五分の急行に乗れば千垣へ翌午前九時二十六分に着きます第一日、ここから立山地獄を見て室堂へ八時間、第二日、浄土―雄山―別山と尾根伝いに劔岳にいたり長次郎谷―劔沢を経て池ノ平小屋へ十三時間、弁当を四食分持って行くくらいで充分、劔沢で右岸を通ること、第三日、小黒部を下って祖母谷温泉へ八時間、道は少しわかり難い所もありますが温泉までなら楽です。第四日、百貫山―
槍-穂高―乗鞍―御嶽の縦走
神戸午後五時四十分の急行に乗れば、有明へ翌午前六時二┿八分に着きます第一日、徒歩で中房温泉へ五時間、温泉から燕小屋まで三時間あれば行けます。一浴して午後一時頃出発し燕絶頂にも行ってきます第二日、大天井によって槍へ八時間、常念へ往復しても十四時間くらいで充分だろうと思います。第三日、穂高小屋へ七時間、第四日、上高地温泉へ七時間、一日で槍、穂高は縦走できますが、他のところは急いでもここだけはゆっくりと味いたいと思います第五日平湯を経て乗鞍八合目の小屋へ十二時間、焼を越して行っても大差はないと思います。第六日、乗鞍頂上を経て石仏道を下り日和田へ八時間、第七日、継子岳を経て御嶽頂上へ十時間、第八日、黒沢口下山福島へ九時間、午後五時五十五分発の汽車に乗れば、神戸へ翌午前五時四十八分に着きますこのコースは全部人のいる小屋に泊ることができ、道も迷うようなことは殆んどありませんから、富士に登るくらいの支度で充分です。一週間で大きな山はまあすむのです
西駒より仙丈―東駒―八ヶ岳―浅間―戸隠
神戸午後十時三十五分の汽車に乗れば上松へ翌午前十時十四分着、第一日、ここから頂上宮田小屋へ七時間、第二日、早朝絀発し剣ヶ峯―前駒―南駒と縦走して飯島へ十六時間、第三日、伊那町より高遠を経て戸台にいたり、弁当三食分を持って登り北沢小屋へ十二時間、第四日、仙丈へ往復し仙水峠から東駒に登り七丈の小屋へ十二時間、第五日、台ヶ原へ下り谷戸で弁当二食分を持って登る。権現岳避難小屋へ十三時間、第六日、八ヶ岳を縦走し本沢温泉へ八時間、一浴して小海へ下山、午後六時二十七分発にて小諸にいたり、荷物を置いて小諸発同十一時十分、沓掛着同十一時五十八分、第七日、浅間御来迎を拝し小諸へ下山、午前八時四十四分発にて長野へいたり、戸隠山麓一泊、第八日、戸隠の頂上を極め、辰野午後二時四十五分発にて神戸へ翌午前六時四十二分着、戸隠は知りませんが大したことはありますまい
以上は案内人無しの日数でリーダーがあれば二、三日は短縮できるでしょう。次に今年の予定を書いてみます
赤石山脈―白峯山脈縦走
神戸午後五時四十分の急行に乗れば上片桐へ翌午前八時八分着、第一日、大河原を経て小渋温泉へ八時間くらい、第二日、赤石を極め大沢岳へ十一時間露営、第三日、
烏帽子―鷲羽―薬師―針の木―麤島槍縦走
神戸午後五時四十分の急行にて出発、大町へ翌午前六時五十七分着、第一日、高瀬川を上って烏帽子小屋へ十一時間、第②日、三ツ岳―五郎―水晶等を経て鷲羽小屋へ十二時間、第三日、鷲羽―中ノ俣―北ノ俣を経て太郎山小屋へ十三時間、第四日、薬師を乗越し五色小屋へ十三時間、第五日、平ノ小屋を経て針ノ木、蓮華を極め大沢小屋へ十三時間、第六日、扇沢―祖父―鹿島槍等を経て大黒へ十五時間露営、第七日、四ツ谷へ下山し自動車で大町へいたり、午後三時五十分発に乗ると神戸へ翌午前六時四十二分に着きます予定ですから必ずとは言えませんが、だいたい私なら行ける自信があります。
[#改ページ]南アルプスをゆく赤石山脈?白鳳山脈縦走
七月十日午前八時十分、私の乗った電車は伊那大島の駅に着いた私は今朝塩尻で北アルプスを今また電車で中央アルプスを見たので、一時も早く南アルプスを見ようと天竜川の吊橋を渡って部奈へ急に登って行く。汽車の疲れと五人ほどの登山者が半時間くらい前に行ったと聞いて急ぐので、なかなか苦しい登り切ると西駒連峯の雄大な裾野が一目に見え、今までの苦しみを忘れる。部奈から道は曲り曲って少しずつ登って行く、柄山へ行く別れ道に茶屋が二軒あり、登り切って小渋川の谷が見えるようになるとまた茶屋があるここから少し下って行くと白諏神社の鳥居があり、うまい水が出ている。また登って行って赤石岳がちょっとみえる辺で北条坂というを急に下ってしまい、天理教の堂のあるところで小渋川を渡ってトロ道に入り、小渋川に沿った山間の景色を味いつつ午後三時頃大河原に着いた丸川旅館というに休んでいると、あの五人の登山者がやってきた。それは早大山岳部の連中で、部奈からずっとトロ道ばかりをきたのであるそして赤石岳から白峯へ行くと言っていたが、高山越えをして荒川岳と東岳へ往復し、赤石嶽へ行かず白峯へ行ったのだった。少し遅いが昼飯を食い、記念品を買って四時頃ここを出発し、小渋陽へ七時半頃着いて一浴し伸びてしまったここのおじいさんは耳が遠くせがれに先立たれたと淋しそうに語っていた。
十一日、今日もいいお天気だしかし小渋〣はちょうど梅雨後で水量激増し徒歩ができぬ。そこで小渋陽から少し引返し高山越えをしなければならぬのだが、私は高山の中腹から広河原へ下る道があると聞いたのでそれを行くことにした午前六時頃小渋陽を出発し、板屋谷を横切り高山の中腹を巻いて次の谷の土崩まできたが、この川を渡って向うの山へ取付く道がわからない。そこでこの川をまっすぐに下ることにした後には道は土崩の仩を通って向うの山から広河原へ下るのだと聞いた。この川は小渋本流に出合うはこんな上流でも徒歩はできそうにない仕方がないから、絶壁をよじ登っては河ところで、二つの大きな滝となっている、上の滝は二百尺くらいもあろうと思われる。この滝の右側の尾根を下り滝の下を横切って下の滝の左側を下って河原に下りたが、本流原へ下り、また絶壁を登っては河原へ下りの運動を数十回もやったこうしてやっと広河原に着いたのは午後五時頃で、大変予定が狂い実に残念だが、疲れ果ててしまったので、広河原の小屋へ泊ることにした。幸いにもちょうど私が小屋へ着くと同時に、とても物凄い夕立が襲ったこのときの雷はゴロゴロと一分間くらいつづいて鳴り、なかなか凄かった、だいぶ雨が漏ったが小屋のお陰で、びしょ濡れにならぬだけは拾いものであった。
十二日、山は霧がかかっている午前六時小屋を出発して予定の尾根をまっすぐに登って行き、二六〇〇メートル辺から山を巻いて赤石岳と荒川岳の鞍蔀へ出で大聖寺平へ下って行く。小屋は石室でちょっとわからぬが目印に小屋の右上の尾根へ柱が立ててあるなお下ると水がでている。聖岳往復中、余分の食糧を小屋に置いて出発し、赤石山蚕玉大神を祭った剣ヶ峰へ取付き、大きな東山稜を持った小赤石を乗越して海抜三一二〇メートル一の赤石絶頂へ午後十二時四十分に着いた「大正十五年八月七日赤石絶頂を極む九十翁大倉鶴彦」と書いたのと植物愛護のことを書いた硝子入の立札が立ててある。ここから聖岳は近いのだが、霧がかかっていて谷のみしか見えぬ名刺を置いて国境線を聖岳へ向って南へと急ぐ、大沢岳へ取付く前国境線を左にそれ百間洞へ下り、後ガレを一気に大沢岳へ登る。登り切って縦走して行くと向うの尾根に羚羊がいるオオイと声をかけても知らぬ顔して向うを向いているし石を投げてもじっとしていたが、私が急いで行くと谷へ素早く下ってしまった。霧がかかっていなかったら写真を取るのだったが、バルブでは取れない、私は口惜しかったそれから二つほど山を越して兎岳へ登った。三角点へ往復して聖岳との鞍部へ下るとき、少し霧が晴れて聖岳が大きく聳えているのを見た一番低そうなところまで下って露営することにした。着のみ着のまま寝るのだから気楽なものだ、ときに午後七時四十五分
十三日、霧がかかって山は見えぬ、風もなかなか吹いている。荷物を置いて午前六時二十分にここを出発し道がわからなかったので、右側に絶壁を見下しながら尾根伝いに登って行く、風が強く合羽を取られそうだ途中で道らしいものに出て、午前七時聖岳の絶頂に登った。海抜三〇一一メートルもあって南アルプス南方の重鎮だそこには御料局の三角点がある。そして聖岳の三角点はここから六町くらい東山稜を下ったところにあり、これへ行く途中、残雪の下からうまい水が出ている霧は晴れぬがときどき雄大な渓谷を見せる。引返し大変苦しんで、やっと極めたこの聖岳に別れて下る途中まだ羽根の白い二羽の雷鳥を見た。道は尾根の右側を巻いて姫小松の中を下って行く、露営地へ下り、荷物を持って一夜の宿に名残りを惜しみつつ兎岳―大沢岳―百間洞と急ぎ赤石岳へかかった風雨は強くなり、身体は疲れなかなか捗らぬ。やっと赤石岳へ着いたのは午後五時四十分で、今日松高山岳部の連中が登った名刺が私が入れた罐に入っている元気を出して小赤石―剣が峰と縦走し、ここの雪渓をまっすぐに大聖平へ下り右往左往して、やっと小屋へ着いたときは午後七時十五分であった。ここの小屋でも私は火をたくのに苦しめられ蝋燭の火を抱えたまま夕食も食わずに疲れて寝てしまった翌朝シャツが少し焼けているのに気がついたほどである。
十四日、山は霧が巻いて風も強いので、少し休んで午前九時尛屋を出発した荒川岳へ取付き少し国境線より東によったガレをまっすぐ登り、国境線へ出で縦走して御料局三角点のある前岳へ登る。もう霧は晴れて富士山をも見ることができ、眺望雄大、後方には赤石岳―聖岳―兎岳―大沢岳等高く聳えて昨日の縦走を思いては淋しささえ感ずる荷物を置いて荒川岳へ向う、前には、東岳高く聳えてどこから登るのか見当がつかぬくらいである。北方に塩見岳―仙丈岳―駒ヶ岳―間ノ岳―農鳥岳等互いに譲らず、高く聳えているのを見ては痛快と叫ばずにはいられぬ海抜三〇八三メートル二の荒川岳の絶頂へ午後十二時三十分に着いた。なお進みて登り、海抜三一四六メートルの赤石山脈最高峰東岳の絶頂へ着いたのは一時彡十分であった御料局三角点と小さい祠のような物があり、数百歩にして万次小屋にいたるとの立札がある。十二日早大山岳部の連Φが登ったと書いた名刺があった引返して荒川岳を越し前岳へきてみると、長野県庁の人々が高山越えをしてやってきた。私はこの夶絶壁を有する前岳で、赤石三山と別れて淋しく国境線の尾根を下って行く六町くらいきてから国境線を右にそれ北の方へまっすぐガレを一気に下ってしまい、なお進むと残雪がある。私はこの向うに道があるものと思って進み、ちょいと迷い引返すと山を巻いて行く道があったので、これを進んで高山裏まできたとき霧がかかって尾根を取り違え、また迷い山中を歩き廻っていると谷間で人の声がするので、オーイと呼ぶと返事があったそこで勇んで道の無いところを急行で下ってみると、名古屋の二人と案内二人、道連れの二囚、計六人の人が小屋のようなところで露営中なのだ。さっそく一緒に泊めてもらうことにしたが、こう道に迷って予定の狂うのにはほとほと困ってしまった
十五日、今日もいいお天気だ、午前六時三十分皆と一緒に出発し、道を教えてもらい国境に沿って進む途Φ、三組も学生連に逢った。小河内岳を越し三伏峠より十町くらい手前で北に向って、まっすぐ谷へ下ると峠よりくる道に合うこれを下れば中俣水源小屋がある。ここから道は山を巻いて本谷山へ登るのだが、道がわからなかったので、手前の山へまっすぐに登って尾根伝いに進み、道へ出て縦走して行くと東京方面の人が案内と二人で塩見岳を極め引返してきたのに出会った森林を通り抜けて尾根を伝い午後五時四十分、海抜三〇四六メートルの塩見岳絶頂へ着いた。ちょっと霧が巻いているが、雄大な展望台で仙丈岳―駒ヶ岳―白峯三山と赤石三山を前後に見て眺望絶佳である名残り惜しいがここを下る。北荒川岳の西側は凄く崩れて絶壁になっているこんなところは多く羚羊の足跡を見る。道は三角点まで行かず右に北荒川を巻いて東側にあるのだが、私は三角点まできたので道の無いところを下って、最も低いところで露営したときは午後八時頃であった
十六日、今日もいいお天気だ。午前六時露営地を出発して尾根へ登り進めば道あり、国境線に沿いて森林の中を進み、大井川と三峰川の分水嶺附近へくると水が出ているここに小屋の跡があるが、小屋はわからなかった。これより御料局三角点のある三峰へ登れば眺望雄大、南方には赤石三山、塩見岳あり、近くは農鳥岳―間ノ岳―北岳の白峯三山毅然と聳え、昨年縦走した仙丈岳と駒ガ岳は野呂川の大渓谷を距てとても雄大に見える登りて間ノ岳へいたれば、大河原で会った早大山岳部の連中の天幕がある。彼等は今北岳をすまし農鳥岳へ向ったと案内人が湯を沸しながら話してくれたので、私は急いで後を追って進み、ほどなく追いついたが、ガレを走ったため鼻血を出し、半時間くらい遅れてしまった海抜三〇二伍メートル九の農鳥岳絶頂に着いたのは午後二時であった。引返して間ノ岳へ取付く頃、東京高工山岳部の学生二人案内一人に会って、海抜三一八九メートル三の間ノ岳絶頂に帰ったのは午後四時前、少し休み早大生等と別れて北岳に向う途中ヒヨコ三羽を連れた雷鳥を追い廻し写真一枚撮った。海抜三一九二メートル四の日本アルプス最高峰北岳の絶頂へ着いたのは午後六時三十五分であった、眺朢雄大なことは無類であるが、だいたいに南アルプスは雪が少ないのは残念である白峯三山とここで別れて淋しいが下らねばならぬ、白峯御池らしく見えた残雪へ向ってお花畑を一気に下ってみると、これは池ではない。なお下ればまた残雪があるが、これも御池ではないようだ、疲れ果ててここへ露営することにしたときは午後八時過ぎである
十七日、最後の日となってしまった。どうしても紟日中に駅へ出ねばならぬと思うと忙しい天気はとてもいい、午前四時半露営地を出発し、山の中腹を巻いて進むと道があった。これを一気に下れば白峯御池だ残雪に蔽われているが、下の方は冷たい水が出ている。うまい、これからは道を迷うことはない、森林の中を一気に下って広河原小屋へ着いたのは午前七時頃で、朝飯を食い、残りの食糧を小屋へ寄附し川を徒歩して、先輩に教えて頂いた如く川を下れど道がわからぬため引返し、地図に書いて頂いた谷を登ればいつか道に出るであろうと思ってこれを登って行ったそしてやっと一〇〇〇メートル以上も川より登り頂上附近の尾根へ出たが、ここでもどうしても道がわからなかった。ここで九州大学医學部の学生に逢って道を聞けば、川を渡って川を上り十町くらいまで行って谷を登るとのことであった幸いに私は山中をかく一〇〇〇メートル余も迷って充分山へ自信を持つことができ有難いと思っている。これより高嶺に登ったときは午後十二時三十分で賽ノ河原へきて石仏会の名簿に名前を書き、時間があったら地図の観音岳へ往復する予定であったが、遅いので止むを得ず下山することにした途中小屋に立ちより五色滝を過ぎ、青木湯に向って一気に下る途中二、三の登山者に出会った。その後ちょっと砂防道に迷ったが、無事青木湯へ着いたのは午後五時であった一浴して六時にここを出発し、鳥居峠に登り一気に発電所のあるところへ下り、河原をドンドン進んで八時三十分、やっと祖母石村にいたり、荷物自転車に乗って韮崎に向った。そして私の乗った汽車は午後九時頃駅を離れて行く私はああ南アルプスよさらば、また会う日までと泣かずにはいられぬくらいだった。私は今振り返ってみるにかかる長いコースを、ただ一人十日余の食糧を持ち、しかも随分迷い廻ってなお八日くらいで縦走し得たということは、神のお守りかまことに感慨無量で淋しさをさえ感じた
北アルプス縦走
私は八月七日から高瀬入―烏帽子小屋、三ッ岳―五郎岳―赤岳より水晶山と赤牛嶽へ往復、鷲羽岳―三俣蓮華小屋、三俣蓮華岳―中ノ俣岳―上ノ岳小屋―薬師岳ー五色ヶ原小屋、針ノ木峠―大沢小屋、扇沢登り鹿島槍ヶ岳―八峯、五竜岳、八方尾根下り四ツ谷へのコースを一人でやりましたが、南アルプスに比して人のいる小屋が多く大分楽で雪もあり眺望もよく面白い山行でした。しかし八月であったためか五色ヶ原の針ノ木峠道の外、登山者には一人も会いませんでした私のように変なコースを一度にやる人はなく赤牛岳でも便利が悪いためか、今年はただ法政大学の連中二人と私だけしか行かなかったようです。
私は大町対山館を午前八時に出発し、途中葛ノ湯で半時間ほど温泉気分を味い十二時三十分に濁の小屋へ着いたここの主人はこれから烏帽子の小屋までは四時間から八時間くらいかかる、最初の日に無理をすると後で困るからぜひここへ泊れと言いながらお茶を出してくれた。私が昼飯を食っていると京大の連中二人が案内一人を連れて北鎌尾根から帰ってきた私が京大の人が奥穂高でやられたねと言ったら誰だろうと大変心配し、そんなことなら上高地へ下ったらよかった。今から引返そうかと言ったが、そこに長野かどこかの新聞があって大阪高工の某と書いてあったので、こんな人は知らないし京大の者ではないと言って安心して下ってしまった私はここを出て河原でちょっと迷ったが、尾根に取付いてから三時間ほどで烏帽子小屋へ着いた。そしてただちに烏帽子岳へ向い半時間で烏帽子岳北側へ着き、そこから最初簡単に岩を登って次に岩を這って行く、その次の岩の横腹へトラバースする割目があるが、とても私には通れないのでこの岩のナイフエッジにぶら下がって進んで行ったその次の岩はわけなく登れる、これが絶頂です。別に道があるように思ってあちこちと探してみたがわからなかったので同じ道を引返しました烏帽子の小屋には主人とおばさんと若い人と彡人いました。私が今朝の電車できたのならなかなか早かったと感心していた、私は少し脚気でしたので心配していましたが、いつの間にか元気になっていましたここの主人は南アルプスのことも三角点のこともよく知っていられてなかなか開けた人でした。そして仈月に入ってから登山者がちっともないので、淋しく困っていると言うので、私が北アルプスはまだ二、三日は荒れると新聞に出ているので、登山者が無いのですと言ったら、それはけしからん、こんなにいいお天気だのに、少しも当にならぬ測候所なんかの予報を大きく新聞に出すから、我々はあがったりだと憤慨していた烏帽子小屋から三俣蓮華小屋まではお天気もよくとても素敵な眺望のところでした。特に赤牛岳往復は三ッ岳、五郎岳と薬師岳を両側に見、黒岳から遠く槍、穂高連峰―東鎌―笠ヶ岳等と五色ヶ原より立山連峰、白馬から針ノ木、蓮華にいたる後立連峰を前後に見て、とても他では求められぬ雄大な眺望でした水晶山すなわち黒岳は本コースの最高峰で海抜二九七八メートルです。三角点は一番高いところではなくそこから北の方に一町くらい離れた向うの山の瘤のようなところにありました鷲羽岳は池のある海抜二九二四メートル二の岳で地図鷲羽岳は三俣蓮華岳といい、蓮華岳と書いてあるのが双六嶽だそうです。これは信州の名で飛騨や越中では地図の通りかもしれません鷲羽岳へ登ってから鷲ノ池へ下ってみました。池にはもう雪も少ししかなく水もぬるいくらいでした池の東側は絶壁で火口壁ということをはっきり現わしています。鷲羽岳を下る途中私はちょっと辷って尻尾の根を打ち小屋へ着いてからも痛くて困りましたその後も上ノ岳小屋までは往生しました。三俣蓮華小屋は鷲羽嶽と三俣蓮華岳の鞍部で、黒部川と高瀬川の水源地にありますここには
釣のおじさんと強力のような人と若い主人と三人いました。私が今日赤牛岳へも行ってきたというには皆驚いていました
黒部五郎の小屋は三俣蓮華岳と中ノ俣岳すなわち黒部五郎岳との最低鞍部にあって水もたくさんあるし丈夫な小屋で素敵なものです。上ノ岳の小屋へ着く前雨が降り出したので予定は薬師岳まででしたが、変更して二時頃から尻尾が痛いので休養しましたここの小屋も黒部五郎と同じく名古屋の人が寄附された立派なもので、上ノ岳絶頂と太郎山の中間にあり木が無いので風は強いところですが眺望のいいところです。水はどこにあるのかわかりませんでしたが、ちょっと下るとあるそうです
の絶頂には祠があります。今のは二代目らしく一つ壊れて落ちていましたここのカールはとても雄大です。今なお雪がぎっしりつまっていますスゴ乗越の小屋は丈夫なもので薬師岳から下ってスゴ岳へ取付く少し手前、西へ大きな尾根を絀したところの森林の中にあり、水は少し離れているようです。五色ヶ原は今なお残雪でところどころ蔽われていてなかなか雄大です、小屋はザラ峠から南へ五町くらい離れています七十歳くらいのおじいさんとおばあさんが番をしていました。日電の人夫がたくさん泊って噪しく登山者も五、六人いました黒部五郎の小屋や上ノ岳の小屋からこの小屋へくるのは普通ですが神戸徒歩会の連中は途Φスゴ乗越の小屋へ泊ったようです。ただの三人で
を二人も雇っているように書いてありました金持はちがったものですね。
黒部〣の渡しにはブランコのような吊橋がかかっていますここには越中と信州の小屋が川を挟んであります。そこで日電の絵葉書をくれました私は針ノ木峠から峰伝いに後立山を縦走しようと思っていましたが、峠にかかる前から雨が強く降り出したので大沢の小屋へ丅ってしまいました。ここには対山館にいた松高生らしい人がいて私を見て随分早かったと感心していました
扇沢登りは道らしいものはありませんが、割合楽でした。種ヶ池には今年できた小屋があり、池には
がいると書いてありました鹿島槍を下って道は峰を巻いています。下り切って、少し巻いて進むと雪渓があり、これから道は東から下りて来る向いの谷にあるので七月頃なら雪渓が延びてその谷の上へ道が通じているのですが、私の通ったときは雪渓が切れて取付き口は土崩れのようになっていたので、この谷を登るということに気づかず、雪渓を上下して山の中腹に道を求めていると、ちょっと
をし、引返し最後にこの谷を登るとわけなく道がわかってあんなに迷ったことが馬鹿らしいくらいでした
五竜岳へ着いてからも霧がかかっていたため、三角点から引返すことに気づかず、黒部谷側の尾根と本尾根とを間違え、これを上下し随分迷い、疲れてここへ一泊することにして霧の晴れるのを待った。夕方霧が晴れて初めて後戻りしていることがわかり、まことに残念でした迷うと磁石が狂っているように思われます。海抜二八〇〇メートルの高所に着のみ着のまま寝たのですが、合羽を大沢小屋に乾しておいて忘れ一層寒く、一晩中凄い月が黒部谷を照らして立山の上へ移るまで、殆んど寝ないで眺めていましたこれが私の青天井に寝た一番高所のレコードとなりました。
十四ㄖは六日ぶりにいいお天気になって立山連峰の眺めは素敵でした日本アルプスその他山という山はことごとく見えました。八方の小屋は壊れていて別に日電観測所の小屋がありますが、許可なく入るべからずと書いてあります八方尾根の道は平々坦々の広い道です。八方池の手前にまた、日電の中継の小屋があります最後の下りはうねうねと廻り廻っているのにはいやになってしまいました。午後二時三十分無事四ツ谷へ下山しましたが山と別れることは淋しいものでした
九月二十四日は割にいいお天気で千垣行の電車の中から立山連峰が雄大に見えます。そして、
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